ローマへと旅している

ミラノのゴミの量が減らないのに業を煮やした近隣自治体と

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さらに彼らはこの漆喰に火山灰を混ぜることにより、セメントのようにしてしまうのでした。これが未だにローマの遺跡が世界中に残っている理由なのです。さらにはなんと大理石の化粧張りをすることにより、今までの文化をさらに進化させるのでした。しかし、今ではこの大理石の化粧張りがすべてきれいに残っているところは、ローマのパンテオンくらいとなってしまいました。水道橋がローマを救う古代の文明、たとえばエジプト文明、黄河文明、メソポタミア文明。

ミラノに来て早々に先生について習い始めた

全ての古代文明はみな水源の近くに国家が建築されたのです。国家建築、繁栄に欠かせないものがやはり水源だったのですね。ところが、また国家の滅亡もこの水源が元となったのです。病気の蔓延、そしてこの根源が汚染された水源となるのでした。この事実に着目した古代ローマはなんと、川を水源とするのではなく、山中に湧く清い水を水源とすることに決めたのです。

 

川を水源とするのではなく

あなたの目の前で各自思い思いにクラクションを鳴らし続ける「バラ窓」とは、中世のキリスト教教会堂の正面壁面に設けられた円形窓のことである。バラの花に似ているためこの名が付けられ、聖母マリアの象徴でもある。同じくこの「バラ窓」がファサードに配されたパリのノートルダム寺院や、ドイツのケルン大聖堂に代表されるような天に高くそびえるゴシック建築とは全く違い、この建物の様式は大地に根づいた安定感があるこの大聖堂の正面には三つの扉口があり、どの扉の上にも「バラ窓」があった。ガイドブックによれば、中央の扉口の上にあるものがアブルッツォ地方で一番大きいという。建物の全体を把握したいと思い、左側の側面を見た瞬間、思わず足を止めてしまった。

イタリア旅行をされたら大変な騒ぎになってしまうのではないかと思う素晴らしい彫刻を施したもう一つの扉口がそこにあったからである。それは固く閉ざされた、「ポルタ·サンタ(聖なる扉)」であった。私はヴァチカンにあるサン·ピエトロ大聖堂の「ポルタ·サンタ」を思い出した。二五年に一度「聖年」の年だけに開かれるというあのブロンズでできた大扉である。「聖なる扉」の意味は後述したい。

ローマの伝統を守り

屋根の上は夏草に覆われ、遠くから見るとこんな壕があるとは到底判らない。半地下に降りる階段11カ所の内、1つの入口は扉が壊れており、まさに、夏草や強者どもの夢の跡、といった言葉にぴったりの光景であったが、前に人が入った形跡はあるものの、周囲ののどかな風景とは余りに対照的な、ひんやりと不気味な空気の建物の中に入る気はしなかった。ドロミテの岩峰を間近に望む静かな森の中にこんなものが潜んでいたのには驚いたが、この辺りは、今世紀初頭まではオーストリア·ハンガリー帝国とイタリアとの国境地帯だったところ。現在イタリア領となっているアルト·アディジェ州とベネト州の境界が当時は国境線だったため、第一次世界大戦が勃発すると国境線上の山岳地帯が、一躍戦略上の要所として脚光を浴びることとなった。連合軍側に属するイタリアもこの地域には山岳部隊を含む大量の軍隊を送り込み、要所要所にトーチカを築くのみならず、現在山小屋になっているような高所まで軍を駐屯させたそうである。

はるかに親しみやすい存在

簡単な解説書も数多くでているので一方、イタリアと国境を挟んで対峙するオーストリア軍も同様の構えを見せたのは当然で、あちこちで山岳戦が行われ、双方にかなりの犠牲者が出たという。今はトレ·チメ·ディ·ラバレド(ドイツ語ではドライ·ツィンネン)という岩峰の絶好の展望台としてアルピニストで賑わうロカテッリ小屋(ドライ·ツィンネン·ヒュッテ)も、オーストリア軍の山岳拠点として使われた経緯がぁり、この山小屋では当時の事情を解説した「ドライ·ツィンネンの戦い」というドイツ語の書籍を販売していた。ドロミテを歩くと、当時の山岳戦の名残がトーチカ以外にもあるが、今もアルピニストの役に立っているのはあちこちの岩山に掘られたトンネルであろう。トンネルと言っても人一人が立って通れるくらいの大きさで、せいぜい数メートルから数十メートル程の長さだが、固い岩盤が幸いしてか、当時軍用に掘削されたトンネルの殆どは今でも利用可能である。これらのトンネルは、あちこちの登山ルートに組み込まれており、固定ワイヤーを伝って岩を登って行くと突然トンネルで岩尾根を抜けたりするので、ちょっと驚かされるてんな登山は他では経験出来ないであろう。