伸びると考えられているため

経験しておかない

子どもは敏感だから悪い影響がある。
私と何回か会ううちに、三年生になると1日行っては一日休みというような状態から、しだいに普通の出席状況へと回復していきました。その子の親が、ある日、つくづくと、私に言ってくれたものです。

わが子が不登校になった時、ここまで順調に来たのに、これであの子の人生に汚点がついてしまったと、大変な挫折感で悔しくて悲しくて大変だったのです。そんな思いでし
たから、この危機から脱出させないと、と力みすぎたんですね。まさに髪ふり乱して頑張らせようと努力したことが、いよいよ子ども自身の思いをわけのわからないものに追いつめてしまっていたのだと気づきました。おかげ様で、このたびの不登校体験が、あの子にとってかけがえのない人生の一部なのだと捉えられるようになり、プラス発想が、私が胸の内に定着しました。
母乳で赤ちゃんの体はメキメキ大きくなって行く。

母親が離れると分離不安を示

ありがとうございましたつくづく実感するのは、学校は、ここに述べたような意味で、子どもが自身の心をたがやして肥えた土壌へ自分を育てあげていくのに役立つ場所なのだということです。子ら白身はお互いのふれあいから生み出すもつれや衝突が、すべて貴重な体験になるのだと感じたくてたまらないのに、今の学校がそれを受け止めてくれるところではないことが多くて残念です。
不登校はそういう学校に対する子どもたちの不満のしるしです。
不登校は、その子の病気というよりは、そういう子を生む学校や社会の病気ですね。

きょうだいの違いって親の知恵の泉

きょうだいでも違っていて当たり前
上の子、下の子、私たち両親には、どちらもかわいいわが子に違いありません。どちらにも愛情を注げるだけ注いできたつもりです。だのに、どうしてあれだけ違ってしまったのでしょうか!
こんな不思議で不本意この上ない親の訴えにしょっちゅう出合います。
子どもは親の誠実さだけの影響で育つのではありません。

 

両親への愛着度を統計にあらわしている

それぞれが互いに影響しあうもので、です一方が他方にとって反面教師風に刺激しあうと、対照的に違ってしまうものなのよく似たきょうだいと、対照的に違うきょうだいと、二種のきょうだいがいますね。というより、ある部分では実に似かよっているのに、他のある部分ではまるで対照的に違う部分がある。そういうものなのですね、きょうだいって●r我
とr超自我
自我
再々述べていることながら、大切なので何度も繰り返します。人間の心には、二つの本質的に違う自分超自我がいて、生きている限りそれら二つの自分が対立葛藤しているのです。どちら側も、自分が本当の自分だと主張して……。
成績が良く

子供が家にいる日曜日などにお客さまがみえ
第三の自分自我エゴというのが、実に人間の心の大事のポイントなのですが、わが国では、この自我ということばがと同一視されて、本当の意味で把握できている人が少ないのです。残念なことです。
超自我という二つの自分は永遠に対立を続けます。その二つの自分の仲をとりもつ中庸の自分が自我なのだということを正確に理解すべきです。この三つのことばは似かよっていてどれがどれだか分かりにくい。だから、自我を混同し、超自我を正確に捉えられないのですね。

 

学校じゅうの廂を取り払ってください

なんていうきょうだいの中に入らず見守っておくこの三つの自分、つまり、我と超自我と自我というものの対立葛藤とバランス感覚のありょうを、自分の内心でよく見つめる訓練が親にできておれば、自分の子でありながら対照的に違うように育っていくわが子たちを、あきれたように策もなく眺めていなくてもすむのに、と思います。
子のきょうだいげんかの中に入りこんで取り仕切らずにすむと思うわけつまり、ですね。
親が、子ども同士がけんかをした時、上の子に、あなたはこうこうこういう理由で悪い、ドの
子は下の子でこういう理由であなたも悪い、と、子どもをそれぞれ力んでいましめると子はますます対照的になり、対立がより険しくなりますね。

子どもにして欲しい。


その仲をとりもつこの節で強調したいのは、二人子どもがいるとすると、一人は、ともすれば親の
の部分を引きついでわがままつ子になり、あとの一人は超自我の部分を引きついでとりすましっ子になって、互いに違っていて、いがみっぱなしということにもなりかねないということです三人目は、自我
さらに、例えば三人子どもがいるとすれば、分身のように育ったりするわけですね二つの仲をとりもつのバランスのきいた三人目の末息子、Eの二人の仲をうまくとりもつような、ことになったりするわけです。
子どもはみんな鼻から二本棒垂らしていた。