母乳で赤ちゃんの体はメキメキ大きくなって行く。

子どもの頃から絵を描くのが好きだった。

いろいろな気がかりが山積みしているのが人生というものです。だのにですよ。
気持ちの持ちよう次第で、さほど先行きが気にならなくなった、という楽天性が、な難題をとりあえずの形で片づけてしまえる何よりの支えになるのですね。
だのに、いろん歳がいっても、自分のまずいところが新たに見つかります。
そうはいかない。自分の力には限度があります。
すぐ全部片づけたいのに、そのうち、いくつか片づくだろう。
どうせ何年か何十年だか何百年か先には、地上の人類のもっともっと多くが、ひとを大切にすることが自分を大切にすることだと気づいているに違いないのですよそれを思うとき自分の生は遥かと思います。
学校の教員たちとも意の通じる

勉強というのはまずしんどい。
勉強というのはまずしんどい。
母親はいう。
母親はいう。


子どもがますますいや気を起こして

成長していく楽しさに夢中なのであれば

これだけは確信のできることです。
今日は秋びょり。
どこまでも遠い空です。

子どもの心は肌にある

肌感覚が性格
になる肌が合うとはどういうことか私たちが普段、モノに触れたときに感じる不快な皮膚感覚には、どういったものがあるだろうか。
とげとげ

ちくとえばべとべとぬるぬるねちねち
ちくという痛みに関係する感覚もある。
などを思いつく。

母親はどうしたかという

子どもを育さらにはざらざら
反対に、好きな皮膚感覚といえば、すべすべさらさらといった柔らかい毛布のような手触りあるいはぽかぽかぬくぬくという温かさを表わす感覚などもあげられるこれらの感覚は、ヒトがサルから進化する過程で、たとえば、腐った食べ物やトゲのある植物などは危険なものとして近づかないように認識し、逆に、柔らかい毛布のような心地よい感触は、母親の肌と類似した心地よい刺激として近づくように認識するなどして培ってきたのではないか、と推測することができる同じことを触覚でなく視覚で考えてみよう。
学校の教員たちとも意の通じる子どもの問題点を責める前見た目で好きなものは、美しいものきれいなもの
で、その反対の醜いもの汚いものは嫌悪感をもよおす。前者はたとえば新鮮な果実や、健康な個体の特徴であり、後者は腐った食べ物や病気になった個体の性質であるそのものがもつ性視覚的な好悪の判断基準は、その外見の美醜、質、つまり内容や特性だということがわかるそれに対して触覚的な判断基準は、人の性格を皮膚感覚を用いた言葉で表現するときを考えても、嫌われる性格としてねちねちべたとげとげ陰湿なといった触覚による比喩で表わされることが多い。

母さんは次のことばが出ませんでした。

見た目だけでなく、を中身で判断しようとするときに、私たちは皮膚感覚を言葉にしているのだ人こうした感覚は、じつは人間関係では特に重要なことである。必ずしも相手に触れる必要はない。相手と話してみて相手ののような雰囲気に触れると、何かしら感じるものである。もちろん、相手の肌に直接触れたり触れられたりすればより確実にわかる自分が相手に触れようとするときに、抵抗感はあったか、その手はどんな触れ方になったか、などを観察してみる。また相手に触れられたときはどう感じたであろうか。肌の感覚は、鍛えれば鍛えるほど敏感に、また確実に信頼できる手がかりになっていくものであるそして、このような皮膚感覚から、あの人とは肌が合わないというような直感が生まれる。
中学校の入試について


教育との両立がむずかしいカーと考え出しました。

両親が育った頃はものがなかった時代この部屋は気づまりだとか緊張した空気に包まれているといった直感も、やはり肌で感じる性質のものなのであるところで、肌が合う
と似た言葉に、息が合う
というのもある。
この二つはどこが違うのだろう
息が合うの場合は、何かを一緒にやってみて、相手とテンポや考え方が合うというときに使う言葉だろう。それに対して肌が合うの場合には、何をする以前から、相手の雰囲気や印象から直感的に合う-合わないを判断しているのではないだろうか。生理的に嫌いという言い方もできる。
鳥肌が立つほど嫌い
相手の出しているのような雰囲気に触れて、同じようにという言い方もあるそれは、肌が拒否反応を起こしているわけだ。