手も口ほどに物を言い

ギリシャの美の神のアフロディーテはヴィーナス

そうなのです、ローマ人は属州からの税で遊びほうけていた!というのは事実ではなかったのです。なぜならば、属州も全く同じシステムに沿っていたからです。これがゆえに、ローマ帝国が支配していた全ての町は同じ造りをしているのでした。闘技場があり、教会があり、水道橋、そして塀に囲まれた町並み。今のヨーロッパ、どこの町にいっても同じ造りであることにお気づきになりましたでしょうか?芸術性よりも実用性たとえば劇場下記に見る、イタリアシシリア島のタオルミーナの劇場。

まず敷地に入るゲートの鍵


書かれてあるメニューの内容がさっぱり判らず大いに困惑したも

>イタリア人が特別な時間つぶしのノウハウを持っている筈もない実はギリシャ人により建築された劇場。とくにこの劇場は考えに考え尽くされた立地で、観客席から舞台を眺めると、俳優が演じる舞台の裏にはシシリア島唯一の活火山エトナ山が見えていたのです。ギリシャ人にとっての舞台は神に捧げるためのものであり、あくまでも芸術性、神秘性を重視していたのでした。ところが、敵の物でもいい物は吸収するローマ人。もちろんこの劇場も再利用いたします。


ローマのサン·ピエトロ大聖堂も

フンギ·ボルチーニその後とってかわったスペインとともに

なかなかユニークなデザインが多いしかし、帝国にとってもはやイタリアは1属州に過ぎず、ローマ帝国のイタリアに対する支配力は大きく低下したのです。さて、東ローマ帝国。7世紀、この東ローマ帝国近郊のサウジアラビア、メッカにてイスラム教が発祥します。そして徐々に今の中近東でイスラムの力を広げてゆくのでした。そしてとうとう、トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領されてしまいます。ローマ教皇たちもヨーロッパから聖地エルサレムに巡礼するためには、どうしてもアナトリア半島を通過しなくてはい行けません。この聖地への道が異教徒に支配されることはどうしても避けたい。そこで、その時代の東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位1081年-1118年)が、1095年ローマ教皇に救援を依頼したことが歴史に名を残す十字軍の発端となるのです。この時皇帝アレクシオスが要請したのは東ローマ帝国への傭兵の提供であり、十字軍のような独自の軍団ではなかったですが…十字軍とは、中世(西ローマ帝国滅亡から東ローマ帝国滅亡までの5世紀から15世紀の間)目的に派遣した遠征軍のことです。に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することをこのとき、大義名分として十字軍はキリスト教圏の諸侯からなる大規模な連合軍でありました。


イタリア人ばかりだった

まも私があなたに,娘さんの処女を護るようこれまで何度もお願いし、また警告してきたことを知っているでしょう。世間はとても危険でうつろいやすく、か弱い母親たちの家など、飢えた若者たちの愛欲の罠の前で夫少しも安全な場所ではないのです-。(書簡第1111番、筆者訳)ヴェロニカは,こうした自らの考えを行動に移そうとした。ヴェネツィアの政府当局に請願を出し、子連れの娼婦たちを収容するための福祉施設の設立を訴えたのである。娼婦自身がその生業を続けなくてよいように、そして、その子どもたちがその職業を継がないように-。

ラクイラこの落成式の数か月前の日付

ヨーロッパのレストランで爪楊枝が必ずといって良いほどテーブルの上に出てくるのはための救護院が誕生した。それはまさに、ヴェロニカが望んだとおりのものだった。この願いは聞き入れられなかったが、しかし一五八○年、ヴェネツィアに娼婦のひらヴェロニカ·フランコ·の生涯だった。一五九一年に熱病あるいはペストにより死去。自らの魅力だけで道を切り拓き続けた四五年Luccaルッカ貴婦人が眠る街観光地として日本人にはすっかりおなじみとなったイタリアだが、数多くの町の中には、ヨーロッパでの人気度の高さのわりには、まだまだ日本人の訪れる数が少ない町がいくつかある。

ローマへと旅している

ミラノのゴミの量が減らないのに業を煮やした近隣自治体と

海外保険に加入しておいた方がいいでしょう

さらに彼らはこの漆喰に火山灰を混ぜることにより、セメントのようにしてしまうのでした。これが未だにローマの遺跡が世界中に残っている理由なのです。さらにはなんと大理石の化粧張りをすることにより、今までの文化をさらに進化させるのでした。しかし、今ではこの大理石の化粧張りがすべてきれいに残っているところは、ローマのパンテオンくらいとなってしまいました。水道橋がローマを救う古代の文明、たとえばエジプト文明、黄河文明、メソポタミア文明。

ミラノに来て早々に先生について習い始めた

全ての古代文明はみな水源の近くに国家が建築されたのです。国家建築、繁栄に欠かせないものがやはり水源だったのですね。ところが、また国家の滅亡もこの水源が元となったのです。病気の蔓延、そしてこの根源が汚染された水源となるのでした。この事実に着目した古代ローマはなんと、川を水源とするのではなく、山中に湧く清い水を水源とすることに決めたのです。

 

川を水源とするのではなく

あなたの目の前で各自思い思いにクラクションを鳴らし続ける「バラ窓」とは、中世のキリスト教教会堂の正面壁面に設けられた円形窓のことである。バラの花に似ているためこの名が付けられ、聖母マリアの象徴でもある。同じくこの「バラ窓」がファサードに配されたパリのノートルダム寺院や、ドイツのケルン大聖堂に代表されるような天に高くそびえるゴシック建築とは全く違い、この建物の様式は大地に根づいた安定感があるこの大聖堂の正面には三つの扉口があり、どの扉の上にも「バラ窓」があった。ガイドブックによれば、中央の扉口の上にあるものがアブルッツォ地方で一番大きいという。建物の全体を把握したいと思い、左側の側面を見た瞬間、思わず足を止めてしまった。

イタリア旅行をされたら大変な騒ぎになってしまうのではないかと思う素晴らしい彫刻を施したもう一つの扉口がそこにあったからである。それは固く閉ざされた、「ポルタ·サンタ(聖なる扉)」であった。私はヴァチカンにあるサン·ピエトロ大聖堂の「ポルタ·サンタ」を思い出した。二五年に一度「聖年」の年だけに開かれるというあのブロンズでできた大扉である。「聖なる扉」の意味は後述したい。

ローマの伝統を守り

屋根の上は夏草に覆われ、遠くから見るとこんな壕があるとは到底判らない。半地下に降りる階段11カ所の内、1つの入口は扉が壊れており、まさに、夏草や強者どもの夢の跡、といった言葉にぴったりの光景であったが、前に人が入った形跡はあるものの、周囲ののどかな風景とは余りに対照的な、ひんやりと不気味な空気の建物の中に入る気はしなかった。ドロミテの岩峰を間近に望む静かな森の中にこんなものが潜んでいたのには驚いたが、この辺りは、今世紀初頭まではオーストリア·ハンガリー帝国とイタリアとの国境地帯だったところ。現在イタリア領となっているアルト·アディジェ州とベネト州の境界が当時は国境線だったため、第一次世界大戦が勃発すると国境線上の山岳地帯が、一躍戦略上の要所として脚光を浴びることとなった。連合軍側に属するイタリアもこの地域には山岳部隊を含む大量の軍隊を送り込み、要所要所にトーチカを築くのみならず、現在山小屋になっているような高所まで軍を駐屯させたそうである。

はるかに親しみやすい存在

簡単な解説書も数多くでているので一方、イタリアと国境を挟んで対峙するオーストリア軍も同様の構えを見せたのは当然で、あちこちで山岳戦が行われ、双方にかなりの犠牲者が出たという。今はトレ·チメ·ディ·ラバレド(ドイツ語ではドライ·ツィンネン)という岩峰の絶好の展望台としてアルピニストで賑わうロカテッリ小屋(ドライ·ツィンネン·ヒュッテ)も、オーストリア軍の山岳拠点として使われた経緯がぁり、この山小屋では当時の事情を解説した「ドライ·ツィンネンの戦い」というドイツ語の書籍を販売していた。ドロミテを歩くと、当時の山岳戦の名残がトーチカ以外にもあるが、今もアルピニストの役に立っているのはあちこちの岩山に掘られたトンネルであろう。トンネルと言っても人一人が立って通れるくらいの大きさで、せいぜい数メートルから数十メートル程の長さだが、固い岩盤が幸いしてか、当時軍用に掘削されたトンネルの殆どは今でも利用可能である。これらのトンネルは、あちこちの登山ルートに組み込まれており、固定ワイヤーを伝って岩を登って行くと突然トンネルで岩尾根を抜けたりするので、ちょっと驚かされるてんな登山は他では経験出来ないであろう。

イタリアでこんにちはボンジョルノは魔法のことば

イタリアの特徴と言って良いと思います

セニウスが父の殺害をうけて馬に乗り、北へ逃れて、かの地で興したのがシエナであるという異説がある。実際にはシエナはラテン人ではなくエトルリア人によって建てられた街だが当のシエナの人々だけはこの異説を信じていた。というわけでシエナでも、主な広場やドゥオーモの前などそこかしこに、雌狼と双子の姿を見ることができる。そこには、自分たちの街が、大ローマの建国者の血をひく者によって創られた、由緒正しいものであるとみなすシエナ人の強い自負がある。それほどの自信を抱いても当然なほど、シエナは-とくに中世において豊かな時代を謳歌した。

ローマ帝国の最大版図をなしえた皇帝としても名高いトラーヤーヌス


ミラノの街中でも私は小さな教会が点在しているのに気がついた

>イタリア生まれのヒルデブラントが今でも、シエナを本拠とするモンテ·デイ·パスキ銀行がイタリアを代表する銀行のひとつであるように、街は金融業で財をなした。山ひとつ越えたところにある隣町フィレンツェは、中世末期のヨーロッパにおける一大金融センターとなっていたが,シエナも一時期は肩を並べるほどの成功をおさめていた。都市国家同士が争う戦国時代にあって、両者は常に対峙しあうライバルであり続けた。フィレンツェが一貫してローマ教皇を支持すれば、シエナは神聖ローマ皇帝側の陣営の雄となった。たいじ文化面でも、両者はお互い一歩も譲らなかった。


フィレンツェに活動の拠点を移すセル·ピエロにとって願ってもない良縁だった

日本で大地震が起こるとは

成立して間もないキリスト教はまだ力を持ってはいなかったと考えられるだろうその日のおすすめ料理を食べてみたいと思うなら、材料を持ってくるとか、英語、ちゃんとしたお店であれば、ぜひチャレンジしてみてはいかが。さて、料理の頼み方です。イタリア料理のみならず西洋料理はコースで出て来るのは、皆さんご存じの通り。前菜の西洋料理の流れで、イタリア料理も基本は同じですが、最も異なるのがスープの代わりにパスタが出て来ること。スープメイン→デザートと言うのが、普通イタリア料理の順番は、アンティパスタ(Antipasta=前菜)プリモ(PrimoPiatto-一皿目、ルチェ(Dolce=デザート)→カフェ(Caffe’=コーヒー)または食後酒、と言う流れです。キエティは一層華やかな歴史の光景に包まれていくパスタかスー7)→セコンド(SecondoPiatto=一皿目、肉か魚)→ドパスタがスープに入っている料理も地方によってはありますが、パスタはスープが陸に上がった姿だと思えば判りやすいかも知れませんね。パスタにはお馴染みのスパゲッティを筆頭に、生麺のタリアテッレやタリオリーニ、短いパスタのペンネ、ジャガイモで作ったニョッキ、それにお米のリゾットも広義のパスタに含まれます。迷ってしまいますね。あ、ちなみに日本ではいつの間にかスパゲッティのことを「パスタ」と言うようになりましたが、これはあくまでも日本的表現。イタリアのレストランで「パスタをください」と聞くと、「は???」と言われること間違いなしなのでご注意ください。


イタリアの恥部として映った

そしてかの東ローマ帝国は、第4次十字軍によるコンスタンティノポリス略奪後、亡命政権をたてて抵抗。そして約60年後首都奪回。しかし弱体化した東ローマ帝国を、モンゴル、セルビアなどが攻撃してくるのでした。そしてとうとう1453年4月、オスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世率いる10万の大軍勢がコンスタンティノポリスを包囲しました。東ローマ側は守備兵7千という圧倒的に不利な状況の中、2ヶ月近くにわたって抵抗を続けるのですが、5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落。

イタリア側にあるチェルビニア

遅くとも予定出発時刻の20分前には駅に到着していたいものです皇帝コンスタンティノス11世は部下と共にオスマン軍に突撃して行方不明となり、東ローマ帝国は完全に滅亡するのでした。これによって、古代以来続いてきたローマ帝国の系統は途絶えることになるのです。2000年、ローマ教皇ヨハネ·パウロ2世は十字軍や異端審問などについて「異端に対する敵意を持ち、ました。さらに、2001年には十字軍による虐殺があったことを正式に謝罪しました。これはカトリック教会にとって、十字軍の評価に対する大きな転換だったのです。

ミラノの郊外だけでも公開している館や城は山ほどある

ラクイラ県を後にした私は

男性名詞ならノで終わります

衣には、ひかえめにも麗しき額に影をおとす。(同、第1巻四111節)薔薇や草花の模様が散らばる。花冠を戴く金色の髪は一四七五年の1月にサンタ·クローチェ教会前広場で繰り広げられた馬上槍試合(ジオストラ)は、ロレンツォの、ロレンツォによる、ジュリアーノのためのショーとなった。メディチ家の家庭教師でもある当代随一の詩人アンジェロ·ポリツィアーノが、このジオストラを題材に長詩を書いている。ジオストラでは、選手は武装して馬にまたがり、全速力ですれ違う一瞬に、練習用の槍を相手の胸へと命中させる。

イタリアならではと言えるかもしれない

この派手なトーナメントには、10あまりの良家から子息たちが選手として参加した。行列が街中を練り歩き、仰々しいファンファーレの中、演劇的な演出による幾多のセレモニーを重ねてようやく試合が始まった。しかし、かつてロレンツォ自身がジオストラで優勝したのと同じように、今回もジュリアーノが予定調和的に勝者となった。そしてかつてロレンツォのミューズであるルクレツィア·ドナーティが、ロレンツォに月桂冠を載せたのと同様に、今回もまた、ジュリアーノに栄誉を授ける女王役は、シモネッタ·ヴェスプッチがつとめていた。このジオストラによって、ジュリアーノとシモネッタは、それぞれフィレンツェの男と女として公認された。

 

パレルモのあるじは

ローマ郊外のアウレリア地区に展開しているサフランもアブルッツォの名産の一つだ。「キタッラ」は歯ごたえがあり小麦本来の風味がある。蕎麦同様、コシのある麺が好きな日本人向きのパスタである。このコシのあるキタッラに仔羊を使った濃厚なソースを絡ませるのがアブルッツォの郷土料理であるこの手付かずのままの自然環境がパスタを美味しくするということがわかっただけでも来た意味があった。歴史や伝統や食文化がこのアブルッツォ州に残っているのは、この自然を人の手で壊していないからこそ可能だったのだと思う。

博物館に保存されているグアルディアグレーレ「トレモンティ」グアルディアグレーレは、標高六00メートルの小さな町である。この町は、ダヌンツィオの作品『死の勝利』でたびたび登場する舞台であった。そこには「母なる不動の大いなる山マイエッラの山腹にあり、千年の時に耐えてきた数々の塔がそびえる石造りの高貴な町」と綴られている。その「高貴」な町にこれから足を踏み入れたい。「サンタ·マリア·マッジョーレ教会まずサン·マルコ門をくぐった。

だらしなく退廃的でフィレンツェが進撃してきて

なんと同時期、隣の部屋ではミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画を描いていたのでした。悲劇的なことに1520年、それは彼の誕生日でもありました。ラッファエロは熱病で没するのでした。ちょうど37歳。この年は巨匠レオナルドダヴィンチが没した翌年で、これにてルネッサンスが終わり、バロックの時代がやってくるのでした。

イタリアの典型的料理リゾットの場合は

イタリア語は教えるので皆バイリンガルということになるメディチ家これらの芸術家をサポートしたのが、そうメディチ家。1434年から1737年までフィレンツェはメディチ家の支配下にありました。コジモは金融業で財をなし、実質的にフィレンツェを支配、多くの文人芸術家を援助してルネッサンスの花を咲かせることに大いに貢献した一族です。その後を継いだのがミケランジェロを見いだした、孫のロレンツォで、しっかりとした統治と文芸保護を受け継ぎ、メディチ家の第次黄金時代を築くのでした。ロレンツォが1492年に若くしてなくなり、その長男ピエロは凡庸であり、コジモ、ロレンツォと二代にわたる慎重に進めてきた平和政策を受け継ぐことができなかったのでした。

ローマ帝国が崩壊した後

イタリア国内にも幾らでもカラバッジョの人物画はあるだろうに

イタリア半島にギリシャ文化が入り
書物によると、マルコのいうミトラ教とは、ペルシャで発生し、ゾロアスター教の太陽神と同様、太陽神ミトラスを主神として人気を博した宗教とある。古代ローマ帝国へ流れ、帝国内の軍隊に人気のあった神だった。キリスト教の発生とほぼ同時期にその姿を消したといわれるが、部はキリスト教へと受け継がれたようだ。魂の不滅や最後の審判、点も共通しているミトラ教の習慣と教義の一さらに死者の復活を信じる私は、点と点が線になったような、ぼんやりしていた画像が鮮明になったような気がした。ということは、回文に隠された「われらの父」という言葉は、キリスト教のキーワードであるが、実はミトラ教のキーワードでもあったと言えないだろうかキリスト教は、紀元1世紀の設立当初はローマ帝国の側からはユダヤ教の異端程度にしか思われていなかった。

そして今のスイス、フランスを8年がかりで完全に掌握。勝利のたびに戦利品、つまりシーザーの個人の財産が殖える仕組みにより彼は巨万の富を手に入れるのでした。しかしこうした英雄の誕生は他の者のねたみを買ってしまいます。ローマの元老院議員の多くが反シーザー派になっただけではなく、縁続きでうまくやっていけると信じていた三頭政治の一人ポンペイウスがシーザーを蹴落とす作戦に出たのです。といって、海外領土を一挙に増やした常勝将軍を理由なく追放はできないと、そこでポンペイウスは巧妙な作戦を考えつくのでした。

ローマの市民権を与えていたのです

ガリア州総督をつとめるシーザーに対して、兵をつれてイタリアに入国させないと通告したのです。ローマに戻るなら軍の指揮官を辞任しろと。つまり丸腰で戻れということで、これは当時の習慣では逮捕、処刑を意味していたのです。彼は部下の兵をつれ、北部イタリアのルビコン川で立ち止まったのでした。というのも、このルビコン川がイタリアとガリア植民地の支配権との境界線になっていたのです。

その行く手を阻む敵がいた


ローマからほど近いこの街は教皇派ゲルフの牙城として機能したヨーロッパにおける宗教の歴史を私なりに振り返ってみた。マルコの家を後にしてミトラ教からキリスト教へ受け継がれた「シークレット·メッセージ」古代ローマ人の宗教はギリシャ人と同じく多神教であった。例えばギリシャの最高神のゼウスはローマではジュピターであったし、ギリシャの美の神のアフロディーテはヴィーナスであった。あるいはエジプトの女神イシスはそのまま受け入れられていた。さらに一神教であるユダヤ教も受け入れられていた。

嫌な予感がしたが

書物によると、マルコのいうミトラ教とは、ペルシャで発生し、ゾロアスター教の太陽神と同様、太陽神ミトラスを主神として人気を博した宗教とある。古代ローマ帝国へ流れ、帝国内の軍隊に人気のあった神だった。キリスト教の発生とほぼ同時期にその姿を消したといわれるが、部はキリスト教へと受け継がれたようだ。魂の不滅や最後の審判、点も共通しているミトラ教の習慣と教義の一さらに死者の復活を信じる私は、点と点が線になったような、ぼんやりしていた画像が鮮明になったような気がした。ということは、回文に隠された「われらの父」という言葉は、キリスト教のキーワードであるが、実はミトラ教のキーワードでもあったと言えないだろうかキリスト教は、紀元1世紀の設立当初はローマ帝国の側からはユダヤ教の異端程度にしか思われていなかった。

イタリアに行ったら積極的に使ってみましょう


ほぼ直角に交差する直線の大通りによって規則的に区切られ
天気予報、日の出日の入りの時刻、女性なら気になる紫外線情報など、全方位的に天気を知ることができます。旅行中の当日·翌日などの天気が明確になることで、スケジュール変更も容易となり、海外旅行者に人気が高いアプリのひとつです。観光案内アプリ地図で雨の様子が確認できるというのも旅行会社やガイドブックの出版元などで、さまざまな観光案内アプリを出しています。グアムの基本情報や観光地の紹介はもちろん、グルメやショッピング、エンターテインメントスポット情報が詳しく載っているので、計画的に旅をしたい方におすすめです。グルメサイトアプリ現地のグルメサイトアプリを入れて、ン、穴場的なお店が見つけられるかも。

行ってみたら案の定

トイレアプリ自分がいる付近のお店や、今営業しているお店を検索。英語での紹介となりますが、行きたいお店の場所や営業時間、電話番号を調べるのにも便利。地元の人の口コミと豊富な写真で、ガイドブックには載っていないおいしいレストラ旅行先でのトイレ探しは、土地勘がないだけに大変困ります。ありがたみを感じられる瞬間が訪れるかもしれません。その他観光都市ローマには比較的公衆トイレが多く設置されていますが、道で急にトイレに行きたくなった場合などに役立つのがこのアプリ。