世界の人びとを温かく迎える聖母マリアであることに変わりはない

ジェノヴァからやってきた絶世の美女と恋仲になるのに

仕方なく十五分に一本しか走らない深夜の地下鉄を乗り継いで帰宅したことがある。イタリア語でストライキのことをショペロというが、であるショペロと言う言葉を聞くと背筋がぞっとする今日この頃本当か嘘か知らないが、イタリアでは放送局の設立が比較的自由とのことで、テレビもラジオもやたらに放送局が多い。日本もテレビの放送局はVHF,UHF,衛星と数多いが、イタリアでも国営のRA-三局の他に民間大手が数局、それ以外に地元の中小局がそれこそ数限りなくある。衛星放送を除けば全てUHF放送で、電波の到達距離が限られている割には直線距離で六十キロ離れたスイスの山の中の放送も見ることが出来、バラエティーに富んでいる国営·大手の放送局の番組は世界中どこでも似たようなもので、ニュース·スポーツ·歌番組やショーなどが中心だが、中小局になると電波が弱いせいか、はっきりしない画面に、日がな一日通信販売の紹介をする局(なぜかレオタードの女性が登場する健康器機とペルシャ絨毯の宣伝がやたらに多い)、大昔の映画を外国語の部分も吹き替えなしで放送する局(時々日本の古い戦争映画をやっていたりする)など様々で、中には毎週「どらえもん」を放送している局もあってこれはイタリア語の勉強に丁度良い。先日は、土曜日の朝たまたま早く起きたら、日本の歴史シリーズのような漫画番組で義経と弁慶の物語をやっており、安宅の関や弁慶の立ち往生の話をやさしいイタリア語で解説していたのが面白かった。

ローマ屈指の高級ショッピング街です


イタリアも日本と並んで出生率の低さでは世界で一二を争う国

>ローマのような都会ならミラノで不思議なのは、FM局がびっしりと軒を接して放送していることだ。FM放送に使用している電波帯が広く、日本ではテレビ放送に使用している電波帯もラジオに使っている事もあって自分のラジオで試してみたらミラノ市内の自宅で四十局以上聴取可能だった。クラシックやロックの専門局もあり、RA1はニュースやスポーツ番組が多いといった違いはあるものの殆どは大同小異で、これでどうして共存していけるのか全く不思議である。但し、それぞれの局は国営放送も含めて電波は弱く、車で高速道路に入り十分も走らぬ内に聞こえなくなってしまう。また田舎に行くと、人口数千人の小さな町でもFM放送局があって、地元のレストランやカーディーラーの宣伝をしている。


イタリアのことなので

イタリアの役所で何か手続をしようと思えば

イタリア北部のサロに曲がりくねった道はとても狭く、家々の屋根を伝って下へと続いていた。もしそれらのことを家と呼べるなら、だが。(中略)むきだしの岩肌を壁にした薄暗い洞穴のなかには、ボロ布がかけられた、みすぼらしい家財道具とベッドがあるきりだった。床には、犬と羊、ヤギや豚が寝そべっていた。どの家でも、男も女も子どもも家畜も、洞穴のひとつに皆が住んで一緒に寝ていた。レツィアが詩人へ贈った金髪の房も保存されているこのようにして、二万人もの人々が暮らしているのだ。(カルロ·レヴィ、『キリストはエボリにとどまりぬCristosièfermatoaEbolir一九四六年、筆者訳)戦後すぐ世に出たレヴィの本によって、イタリアの人々はマテーラの洞窟住居のことを初めて知った。彼らは、マテラの人々の暮らしぶりにショックを受けた。大戦に対する反省もあって、イタリアの近代化を急ごうとしていた多くの人々の目には、それは葬り去るべきイタリアの恥部」として映った。さかのぼ人々に”前近代的“とみなされたのも無理はない。


アオスタ州に入った途端に地名がフランス語のつづりになり

そんな時代、なんと日本はまだ縄文時代。ローマ市がローマ帝国を創ったと言われる所以です。ポエニ戦争さて、この時代の共和制ローマのライバルはカルタゴ。ではカルタゴとは?北アフリカ、今のチュニジアの首都チュニスに位置したカルトアダシュト、新しい都市という意味であり、カルタゴは地中海の東端に位置するフェニキア(今のレバノン)の植民地でした。フェニキア人は航海に長じ、商売の大変丈夫な民族。

イタリアのルビコン川で立ち止まったのでした

サルデーニャはスペインハプスブルグ家の支配化に入り貿易でもうけるには販路先、つまり植民地があった方がやりやすいと、カルタゴを建築したのです。イタリア語読みがカルタゴとなるのです。カルタゴに移り住んだ彼らは、農業を営みました。現地の住民を使っての奴隷制大農業でぶどう、オリーブ、果物などを作ったのです。人口は増えに増え、20万人、30万人と増えてゆきました。

この調子では当分交差点から窓拭きや物乞いの姿が消えることはなさそう

イタリア人同士の方が良かろうと

ローマの司令官に重傷を負わせます
ノコギリの歯のような鋭い造形がいくつもいくつもある。これは長い歴史の中で、雨水で浸食された斜面の跡であった。真っ青な秋空と細かなひだが入り込む複雑な茶系の地形が絶妙なコントラストを生み出していた。これは雨が大地を破壊した芸術品といえるだろう。おおやいしぎょうかいがんイタリアの自然とは、糸杉のある穏やかなトスカーナ地方と決めつけていた私は、これでもかと次々に現れる「カランキ」に打ちのめされた。

毛皮を優雅に着こなした若い女性タクシー·ドライバーが、横から割り込んできた車を、窓を開けてどなりつけたこともあるのでびっくりであるもしかするとこのあたりが、日本から来たお客がミラノのタクシーに恐怖を感じる理由かもしれない。イタリアの高速道路の制限速度は時速百三十キロ。これは高速道路の乗り口にはちゃんと示してあるし、ロードマップなどにも書いてあるのだが、誰も気にする人はいないようである。スピード違反で捕まるというケースがないわけではなく、日本でもある隠しカメラにしっかりと取られ、後から写真とともに罰金の請求書が送られてきたという経験者(私も含め)もいるので油断はできないが、しかし、ミラノからボローニャ方面に向かう高速道路A号線、トリノ方面に向かうA四号線などは定規で引いたように真っ直ぐ、しかも真っ平らと言うこともあって制限速度で走っているのは一部のトラック位なものである。百四十キロや百五十キロは当たり前。

ラクイラ城壁内に力をあわせて一つの同盟国を造る仕組みは

三車線の真ん中を時速百五十キロで走っていると凄い勢いで隣の車線を追い越してゆく車はどう見ても百八十キロから二百キロは出している。ベンツとかアルファロメオがこの調子で走るのは別に不思議でもないが、フィアットやフォードの小型車でも、大型車に対抗してびゅんびゅん飛ばすところがイタリアの面白いところだ。北イタリアは工業地帯でもあるので·一号線にしてもA四号線にしても平日はやたらにトラックが多く恐いのは、日本の東名高速のようである。特に夜のA号線はこわい。反対車線を見るとトラックが一列に延々と繋がって走っており壮観であるが、こちらの車線も同様で、トラックの追越しがらみの事故も多いようだ。

大体において料理は平凡


シエナは神聖ローマ人はホテルとしてWi-Fiレンタルが使われているものもありますそして、だんだんアトリの町が近づいてきた、その時である。は一瞬背筋がゾクッとした。白私まるで月世界のような異様な風景とめぐりあったのである。それは「カランキ(バッドランドと呼ばれる景色であった。日本の大谷石のような石質で、イタリア語で「トゥーフォ」と呼ばれる凝灰岩の渓谷が不気味な岩肌を見せていたのだ。

ローマ·フィウミチーノ空港は

ノコギリの歯のような鋭い造形がいくつもいくつもある。これは長い歴史の中で、雨水で浸食された斜面の跡であった。真っ青な秋空と細かなひだが入り込む複雑な茶系の地形が絶妙なコントラストを生み出していた。これは雨が大地を破壊した芸術品といえるだろう。おおやいしぎょうかいがんイタリアの自然とは、糸杉のある穏やかなトスカーナ地方と決めつけていた私は、これでもかと次々に現れる「カランキ」に打ちのめされた。

ローマに支配され


海外で使用するためにやっておきたいことがあります
キュウリの親戚のようなあんなもの(と言っては失礼だが)がサラリーマンが行く定食屋の昼飯並の値段とは恐れ入ったが、ミラノのメルカートで1キロ千リラ(七十円)で買ったこともあるのだから、日本の値段はざっと四十倍になる。日本は元々生活必需品の価格が高いとはいえ、これは極端な例だが、メルカートで買う野菜や果物は、同じイタリアのスーパーと比べても随分安い生産コストの違いも大きいだろうが、パッケージや流通コストもかなり影響しているのではないだろうか。この露天のメルカートとは別に、同じメルカートでも屋根つきの常設公営市場もあり、これもまた市内のあちこちに分散している。こちらの方は月曜から土曜まで毎日開いているが、昼休みがあるので、うっかり午後出かけたりすると閉まっていることがある。売っているものは路上のメルカートと同じようなもので、野菜、果物、魚、ハム、チーズ、肉、調味料等々食料品を主とした生活必需品だが、それぞれの店によって少しずつ特徴があり、必ず大根と白菜と里芋は切らさない八百屋などは随分と日本人が重宝している。

市民は徐々に本土へ戻ってきたのです

メルカートやスーパーマーケットを歩いていると随分面白いものを見つけることがあって、ウニやカニの缶詰を最初に見つけた時には、早速買い込んできてカニ飯を炊いたり、ウニのスパゲッティを作ったりしたものだ。またある時はメルカートの魚屋で鰹を売っていた。マグロを意味するトンノという名前で出ているのだが、この魚、長さ五十センチ程で腹に縞があり、どう見ても鰹の一種,折しも時は五月。新鮮だというので1本1万1千リラ(約八00円)にて丸ごと買い求め、悪戦苦闘の末、鰹のたたきにして食べたがなかなかの美味であった。その後、冬場に同じ魚屋でアンコウを丸ごと売っているのも見たが、こちらの方はまだ挑戦していない(余談ながら当地のレストランではアンコウは尻尾の付け根の部分しか出て来ないので、勿体ない話だが後の部分は捨てるのであろう)。

当然般的な小さな画面ながらも

海外でも定額制で

イタリアの役所もなかなか効率が良いと言う幻想を抱かせるのに十分だ

しかし数年後東ローマ支配がこの地域で復活するにつれ、市民は徐々に本土へ戻ってきたのです。そして彼らはスプリトにあるディオクレティアヌス宮殿に住むことを選択したのでした。なぜならば宮殿が強固な要塞状だったからです。この時、宮殿はすでに長く打ち捨てられており、廃墟と化していました。ところがサロナからの避難民は建造物内部を改造し、ディオクレティアヌス宮殿は徐々に新しい属州の首都として以前より大きな都市に改造されてゆくのでした。

色々なトラブルを引き起こすことは必至であろう

今日、宮殿はスプリト市の内核として存在しており、今も宮殿の内部には商店や市場·広場、住宅があり市民が暮らしているのです。過去の城壁それ自体も部屋として改築されていたり、かつてのディオクレティアヌス帝霊廟は教会に改築されていたり、町中の銀行の中にそのまま当時の柱が残っていたり、市壁として保存したり、地下室を市の食料庫に転用するなど、遺跡をうまく利用した独特の街並みとなっているのです。クロアチアを訪れていただくと、このスブリトがきつと一番印象に残る町となることでしょう。または宮殿を囲む城壁をそのまま都第。コンスタンティアヌス帝ディオクラティアヌス帝から数代後、その時代のローマ皇帝は大変若いコンスタンティアヌス帝。

 

夜飲むとよく眠れないという人も多いので

シエナ人の強い自負イタリアに侵略刑務所側も細心すぎるほどの注意を払った。パンは切ったものを渡し、先がふたつに割れた木の皮をフォーク代わりに与えた。これらはすべて,ナイフだけでなく、フォークでさえも武器になると恐れていたためだ。実際、すすを尿と混ぜてインクを獄中で自作するなど、カリオストロが抜け目のないところを見せたため、監視は厳格さを極めた。そのころ、フランスで発明された気球が話題になっていたこともあり、フランス人のフリーメイソン仲間が空から救出に来るとの噂が飛び交い、見張り兵は夜空もむなしく監視し続けた。

申請するのは最初からギブアップした牢屋の便器を空にする必要があるだろう。長の手紙から、筆者訳)外部への排出孔がないので、もういっぱいになっている。(一七九四年の所衛生状態はこれ以上ないほど劣悪だった。気温も冬には零下110度を記録し、格子しか嵌められていない窓からは冷気が囚人を直撃した。慢性的な栄養失調状態も手伝って、囚人は下痢と便秘に交互に襲われ、膀胱炎と尿道炎で苦しみはじめる。

自分の進路を決定する必要に迫られる

しばらくウロウロしていると、昼食を終えた人々が町に繰り出してきた。ローマ時代の遺跡と中世の建物中世の面影を十二分に残しているこの町は、標高二六五メートルで人口約三万六000人とアブルッツォ州の中ではかなり大きな都市である。町を取り囲む城壁から見えるマイエッラ山塊は見事で、古代からこの地は人びとを魅了させる場所であった。ランチャーノ旧市街の魅力は、古代や中世に造られた建物がそのまま残っていることであるローマ皇帝ディオクレティアヌス時代に造られたディオクレティアヌスの橋」、その橋の上に建つ「マドンナ·デル·ポンテ大聖堂」、アポロン神殿の跡地に建てられたファサードが素晴らしい「サンタ·マリア·マッジョーレ教会」、そして、キリストがパンを肉に変えた聖体が祀られている「奇跡の教会」がある。この「奇跡」を見るために、熱心なキリスト教信者が各地からやってくるというのだ。

ミラノ市内のタクシーが全てストのこともあった

期間も五年間で古典様式でできた「フェナローリ劇場」も、音楽家なら一度は足を踏み入れたい場所だろう。現在のランチャーノは、古代でもそうであったようにエレガントで活気がある町という印象を受けたギリシャ人が造った紀元前の町歴史書を見ると、ランチャーノの歴史はなんと紀元前11八一年にまで遡れるという。古代ローマの詩人ウェルギリウスが著した『アエネーイス』というのがあるが、この話は「トロイの木馬」で有名なトロイア戦争でトロイアが滅ぼされた後、この国の英雄アエネーイスが受難と苦闘の末にイタリアに辿り着くまで描いた一大叙事詩である。そのアエネーイスと一緒にイタリア半島に辿り着いたソリムスというギリシャ人がこのランチャーノの町を造ったといわれているギリシャ人は、ギリシャ神話などの宗教や都市生活などさまざまな文化をアドリア海沿岸都市に持ち込んだのだ。こうしてイタリア半島にギリシャ文化が入り、土着のイタリア人フレンターニ族と異種交配し、交易を拡大し、ローマ帝国時代にはその重要な一都市となり、ローマとアドリア海を結ぶ貿易都市として発展した。

ミラノ中心部の街も一歩建物を裏に抜けると表通りとは別世界で

亡命政権をたてて抵抗

現地での印象が.層深まることでしょう
ここの扉をくぐると、カトリック教徒は罪が許されると言われて★サンタ·マリア·デッリ·アンジェリ教会ミケランジェロが建築を担当した教会で、大浴場の跡地を活用したために、無骨な外観をしています。しかし中に入ると、とてもエレガントな装飾が施されており、な教会のイメージからは、ほど遠く一見の価値ありです。映画監督フェデリコ·フェリーニの国葬が執り行われた教会でもあります。外観とのギャップがユニークです.般的★サン·ジョヴァンニ·イン·ラテラーノ大聖堂サン·ピエトロ大聖堂などと並び称される、ローマの四大バシリカのひとつです。バチカンの領域外にありますが、バチカンの権利が特別に認められています。

五万リラ、十万リラ札が偽造防止のために同じデザインをより精巧に多色化した際には新旧の札が混在していたが、これはまあ過度期と言うことで納得出来る。余談ながら、現在の十万リラ札にはルネサンス期の画家、カラバッジョの肖像画と並んで、その作品が表と裏に印刷されている。裏の静物画はミラノのアンブロジアーノ図書館付属美術館にあるが、表の人物画はイタリアにはなく、パリのルーブル美術館に展示されている。イタリア国内にも幾らでもカラバッジョの人物画はあるだろうに、何故外国に保管されている絵画を紙幣のデザインに使うのか、ちょっと不思議な気がする。流通期間の長いコインになると、紙幣とは比べものにならない混乱振りで、百リラなどは大中小取り混ぜ三種類の大きさがあり、これに特定の年の何とか記念のデザインが加わるので、一体全部で何種類あるのかさっぱりわからない。

イタリアのサッカーシーズンは例年8月下旬から翌年の5月中旬まで

事実上最小単位の五十リラも同様。これにイタリア国内にあるサンマリノ共和国のコイン(サイズと全体の造りはイタリアのコインと同じ)なども混じってくるから、初めてリラ硬貨を見た外国人が途方に暮れるのも想像がつこうというもの。しかし日常生活で百円感覚の千リラが未だ硬貨ではなく紙幣であるのは、アメリカが1ドル札を硬貨にしないのと同様、国家の威信でも関わっているのであろうか。と思っていたら、国会で千リラ札を硬貨にする法律が通りいよいよ九七年夏から千リラ硬貨の鋳造が始まり、流通開始。これが一筋縄で行かないのが、イタリアらしいところで、硬貨に描かれていたヨーロッパの地図の国境線が間違っており、一時はコインを回収するとかしないとか大騒ぎになった。

ラクイラの地図を裏返すとエルサレム市と重なり合う


ローマ含むイタリア及びその他という意味を名前に持つ教会です。建築物として、外見は決して派手ではありません。しかし内部にはキリストが残したと伝えられている足跡が残っており、★サンタ·マリア·マッジョーレ大聖堂サン·ピエトロ大聖堂などと並び四大バシリカと称される大聖堂です。1377年に建築された鐘楼は、ローマで最高の高さを誇っています。それだけにどこか慈愛に満ちたような、優しい空気に包まれた心地よい空間が生みだされています。

十字軍のような独自の軍団ではなかったですが…十字軍とは

ここの扉をくぐると、カトリック教徒は罪が許されると言われて★サンタ·マリア·デッリ·アンジェリ教会ミケランジェロが建築を担当した教会で、大浴場の跡地を活用したために、無骨な外観をしています。しかし中に入ると、とてもエレガントな装飾が施されており、な教会のイメージからは、ほど遠く一見の価値ありです。映画監督フェデリコ·フェリーニの国葬が執り行われた教会でもあります。外観とのギャップがユニークです.般的★サン·ジョヴァンニ·イン·ラテラーノ大聖堂サン·ピエトロ大聖堂などと並び称される、ローマの四大バシリカのひとつです。バチカンの領域外にありますが、バチカンの権利が特別に認められています。

ジェノヴァ共和国イタリアへ来てから一度ゼネストがあったが


せられてきた
彼らは我々の教義を理解する十分な能力があります」だからこそ、その少年四人はヨーロッパの土を踏んだとき、天に浮かぶ別世界の体験を日本に伝えようと必死であった。語学はもちろんのこと楽器を弾くことを含めてあらゆる学問を身につけて八年後に日本に戻ってきたのである。じゅらくだが、帰国すると天下は豊臣秀吉のものになっていた。秀吉が建てた政庁兼邸宅である聚楽第に赴き、彼の前で西洋から運んだオルガン、ハープ、リュート、ヴァイオリンの四種類で彼らはジョスカン·デ·プレの曲を演奏する。だが、秀吉の「キリスト教毛嫌い」の気持ちは変わらず、日本に帰国後の四人の運命は一転してしまう。

ヴェネツィアなどの街で若い日本女性が渋谷を歩くような格好をすると

「キリスト教布教禁止命令」を出しキリスト教徒を迫害していたからである。一人は追放後にマカオで死去。一人は天吊り」によって殉教、一人は長崎で死去。最後の一人は婪帯し仏教に改宗してしまった。私は聞いてはいけないことを最後にヴァリニャーノに尋ねた。

ローマ料理ローマの地元食

かつて有していた重要性をすべて失ってしまった

フィレンツェの町中にあり

ファッション系の店であれば、例えば色のコーディネイトを頼むと、小さな店であっても相手はプロ。日本人では思いもよらぬようなコンビネーションを提案してくる事があります。お値段が納得できるなら、思い切ってそのアイディアに乗ってみましょう。きっと日本でそれを身に付けたら、ちょっと目を引く存在になるかも知れませんよ。そうそう、ここでもクレジット·カードの支払では暗証番号の入力を求められます。

イタリア人は我々から見ると神経質と思う位に色々なことを心配する

なくなりますのでご注意を。レストランの時と同様、うっかり入力を何度か間違えると以後カードが使えなお、イタリアでの買物には通常22%のVAT(付加価値税)が含まれており(2013年10月1日より21%から1%増税)、一定額の買物(およそ150ユーロですが頻繁に見直しがあるので、お店で確認してください)をすると輸出免税、いわゆるタックス·フリーの手続きで税金分を戻してもらうことができます。買物をした店で作成してもらった書類に.EU出国時税関で現物を見せてスタンプを押し、近くの窓口で現金で支払いを受けるか、クレジットカードの座に払い戻ししてもらえます。スーパーマーケットへ行ってみよう!ちいさなお店と並んでお勧めしたいのはスーパーマーケットです。スーパーなんて世界中どこも同じだと思ったら大間違い。

 

ローマ司教レオ1世が

ヨーロッパは暗黒の中世から近代へ移る過渡期でもあった別の面からカンパニリスモを知る方法としてお国自慢の典型、イタリアのどこの地域でも産するワインの事を聞いてみると面白い。イタリア人にどのワインがイタリアでは一番かと聞くときに一つだけ聞いてはいけない。必ず自分の故郷のワインが一番だと言うから何人かの人に5種類か6種類のワインを挙げさせてその中に共通して出てくるワインが皆が認める良いワインということになるのだそうだ。ワイン一つとってもこれだから、他は推して知るべしで、私はイタリア人のお喋りの大きな理由(そしてテーマ)の一つはこのカンパニリスモにあるのではないかと見ているミラノは平野の真只中にある都市なので、市内には殆ど坂道というものがないが、中部イタリアに行くと、丘陵地帯のあちこちに町や村が点在している。特にアペニン山脈を挟んだマルケ州やウンブリア州では山の上に古い町があるのをよく見かける。

ローマの闘技場跡観光地でもあるマルケ州のウルビーノやウンブリア州の州都であるペルージャ、聖フランチェスコで知られるアッシジなどはその典型。飛行機から眺めるとマルケなどは丘陵の尾根伝いに点々と町があり、これを結ぶ道路がまるで万里の長城のように続いている。マルケには仕事でよく訪れたが、地図で見ると隣町で大した距離のないところでもそれぞれの町が山の上にあり隣町に行くには曲がりくねった山道を一旦下り、川を渡って再び同じような山道を登って行くので結構時間がかかる。それぞれの町の住民は中世以来何百年も山の上で暮らし続けているので、直線距離わずか七、八キロしか離れていない隣町へ行っただけでも町の雰囲気ががらりと変わったり、方言が変わったりすることも珍しくない(もっとも私には方言の違いまで聞き取れなかったが)。常識的に考えれば山の上に住むより、川沿いに住んだ方が水の便にしても、農作業,交通にしても便利だと思うのだが、何故好き好んで不便な山の上に住み続けているのだろうか。

イタリア語で困らなくなったのはレストランでの注文

なみに撮影場所は、イゾラ·ベッラ(美しき島)を見下ろす「カポタオルミーナ」というホテルのレストランである。土血ちもし、シチリアで過ごす日が1日しかなく、何を見たらいいかと尋ねてくる人がいたとしたら、私は迷うことなく「タオルミーナ」と答えるだろう。それは片田舎の景色にすぎないのだが、そこには目と、魂と、想像力を魅了するためにこの地に創られたすべてのものがある。かつて、(タオルミーナとその劇場を造った)人々は、私たちとは異なる目と魂を持っていたのだ。彼らの血管には、今日ではすっかり失われてしまったように思われる何かが血と一緒に流れていたのだ。

現在では政府から自治権を認められており

ローマに滞在することができたそれは、美に対する愛情と畏敬の念なのだ。(モーパッサンによる一八八五年の記述、筆者訳)タオルミーナはしかし、なにも映画のおかげで急に観光名所になったわけではなく、古くから「知る人ぞ知る」場所だった。ここに掲げたモーパッサンをはじめ、ゲーテやデュマといった多くの文豪たちが、この地の景観を称えている。最初にこの街をつくり始めたのはギリシャ人である。たとえば、街の東部に位置するサンタ·カテリーナ·ダレッサンドリア教会の内部には、ギリシャ時代の遺構がむき出しのまま展示されており、当時の名残を今に伝えている。