世界の人びとを温かく迎える聖母マリアであることに変わりはない

ジェノヴァからやってきた絶世の美女と恋仲になるのに

仕方なく十五分に一本しか走らない深夜の地下鉄を乗り継いで帰宅したことがある。イタリア語でストライキのことをショペロというが、であるショペロと言う言葉を聞くと背筋がぞっとする今日この頃本当か嘘か知らないが、イタリアでは放送局の設立が比較的自由とのことで、テレビもラジオもやたらに放送局が多い。日本もテレビの放送局はVHF,UHF,衛星と数多いが、イタリアでも国営のRA-三局の他に民間大手が数局、それ以外に地元の中小局がそれこそ数限りなくある。衛星放送を除けば全てUHF放送で、電波の到達距離が限られている割には直線距離で六十キロ離れたスイスの山の中の放送も見ることが出来、バラエティーに富んでいる国営·大手の放送局の番組は世界中どこでも似たようなもので、ニュース·スポーツ·歌番組やショーなどが中心だが、中小局になると電波が弱いせいか、はっきりしない画面に、日がな一日通信販売の紹介をする局(なぜかレオタードの女性が登場する健康器機とペルシャ絨毯の宣伝がやたらに多い)、大昔の映画を外国語の部分も吹き替えなしで放送する局(時々日本の古い戦争映画をやっていたりする)など様々で、中には毎週「どらえもん」を放送している局もあってこれはイタリア語の勉強に丁度良い。先日は、土曜日の朝たまたま早く起きたら、日本の歴史シリーズのような漫画番組で義経と弁慶の物語をやっており、安宅の関や弁慶の立ち往生の話をやさしいイタリア語で解説していたのが面白かった。

ローマ屈指の高級ショッピング街です


イタリアも日本と並んで出生率の低さでは世界で一二を争う国

>ローマのような都会ならミラノで不思議なのは、FM局がびっしりと軒を接して放送していることだ。FM放送に使用している電波帯が広く、日本ではテレビ放送に使用している電波帯もラジオに使っている事もあって自分のラジオで試してみたらミラノ市内の自宅で四十局以上聴取可能だった。クラシックやロックの専門局もあり、RA1はニュースやスポーツ番組が多いといった違いはあるものの殆どは大同小異で、これでどうして共存していけるのか全く不思議である。但し、それぞれの局は国営放送も含めて電波は弱く、車で高速道路に入り十分も走らぬ内に聞こえなくなってしまう。また田舎に行くと、人口数千人の小さな町でもFM放送局があって、地元のレストランやカーディーラーの宣伝をしている。


イタリアのことなので

イタリアの役所で何か手続をしようと思えば

イタリア北部のサロに曲がりくねった道はとても狭く、家々の屋根を伝って下へと続いていた。もしそれらのことを家と呼べるなら、だが。(中略)むきだしの岩肌を壁にした薄暗い洞穴のなかには、ボロ布がかけられた、みすぼらしい家財道具とベッドがあるきりだった。床には、犬と羊、ヤギや豚が寝そべっていた。どの家でも、男も女も子どもも家畜も、洞穴のひとつに皆が住んで一緒に寝ていた。レツィアが詩人へ贈った金髪の房も保存されているこのようにして、二万人もの人々が暮らしているのだ。(カルロ·レヴィ、『キリストはエボリにとどまりぬCristosièfermatoaEbolir一九四六年、筆者訳)戦後すぐ世に出たレヴィの本によって、イタリアの人々はマテーラの洞窟住居のことを初めて知った。彼らは、マテラの人々の暮らしぶりにショックを受けた。大戦に対する反省もあって、イタリアの近代化を急ごうとしていた多くの人々の目には、それは葬り去るべきイタリアの恥部」として映った。さかのぼ人々に”前近代的“とみなされたのも無理はない。


アオスタ州に入った途端に地名がフランス語のつづりになり

そんな時代、なんと日本はまだ縄文時代。ローマ市がローマ帝国を創ったと言われる所以です。ポエニ戦争さて、この時代の共和制ローマのライバルはカルタゴ。ではカルタゴとは?北アフリカ、今のチュニジアの首都チュニスに位置したカルトアダシュト、新しい都市という意味であり、カルタゴは地中海の東端に位置するフェニキア(今のレバノン)の植民地でした。フェニキア人は航海に長じ、商売の大変丈夫な民族。

イタリアのルビコン川で立ち止まったのでした

サルデーニャはスペインハプスブルグ家の支配化に入り貿易でもうけるには販路先、つまり植民地があった方がやりやすいと、カルタゴを建築したのです。イタリア語読みがカルタゴとなるのです。カルタゴに移り住んだ彼らは、農業を営みました。現地の住民を使っての奴隷制大農業でぶどう、オリーブ、果物などを作ったのです。人口は増えに増え、20万人、30万人と増えてゆきました。

当然般的な小さな画面ながらも

海外でも定額制で

イタリアの役所もなかなか効率が良いと言う幻想を抱かせるのに十分だ

しかし数年後東ローマ支配がこの地域で復活するにつれ、市民は徐々に本土へ戻ってきたのです。そして彼らはスプリトにあるディオクレティアヌス宮殿に住むことを選択したのでした。なぜならば宮殿が強固な要塞状だったからです。この時、宮殿はすでに長く打ち捨てられており、廃墟と化していました。ところがサロナからの避難民は建造物内部を改造し、ディオクレティアヌス宮殿は徐々に新しい属州の首都として以前より大きな都市に改造されてゆくのでした。

色々なトラブルを引き起こすことは必至であろう

今日、宮殿はスプリト市の内核として存在しており、今も宮殿の内部には商店や市場·広場、住宅があり市民が暮らしているのです。過去の城壁それ自体も部屋として改築されていたり、かつてのディオクレティアヌス帝霊廟は教会に改築されていたり、町中の銀行の中にそのまま当時の柱が残っていたり、市壁として保存したり、地下室を市の食料庫に転用するなど、遺跡をうまく利用した独特の街並みとなっているのです。クロアチアを訪れていただくと、このスブリトがきつと一番印象に残る町となることでしょう。または宮殿を囲む城壁をそのまま都第。コンスタンティアヌス帝ディオクラティアヌス帝から数代後、その時代のローマ皇帝は大変若いコンスタンティアヌス帝。

 

夜飲むとよく眠れないという人も多いので

シエナ人の強い自負イタリアに侵略刑務所側も細心すぎるほどの注意を払った。パンは切ったものを渡し、先がふたつに割れた木の皮をフォーク代わりに与えた。これらはすべて,ナイフだけでなく、フォークでさえも武器になると恐れていたためだ。実際、すすを尿と混ぜてインクを獄中で自作するなど、カリオストロが抜け目のないところを見せたため、監視は厳格さを極めた。そのころ、フランスで発明された気球が話題になっていたこともあり、フランス人のフリーメイソン仲間が空から救出に来るとの噂が飛び交い、見張り兵は夜空もむなしく監視し続けた。

申請するのは最初からギブアップした牢屋の便器を空にする必要があるだろう。長の手紙から、筆者訳)外部への排出孔がないので、もういっぱいになっている。(一七九四年の所衛生状態はこれ以上ないほど劣悪だった。気温も冬には零下110度を記録し、格子しか嵌められていない窓からは冷気が囚人を直撃した。慢性的な栄養失調状態も手伝って、囚人は下痢と便秘に交互に襲われ、膀胱炎と尿道炎で苦しみはじめる。

自分の進路を決定する必要に迫られる

しばらくウロウロしていると、昼食を終えた人々が町に繰り出してきた。ローマ時代の遺跡と中世の建物中世の面影を十二分に残しているこの町は、標高二六五メートルで人口約三万六000人とアブルッツォ州の中ではかなり大きな都市である。町を取り囲む城壁から見えるマイエッラ山塊は見事で、古代からこの地は人びとを魅了させる場所であった。ランチャーノ旧市街の魅力は、古代や中世に造られた建物がそのまま残っていることであるローマ皇帝ディオクレティアヌス時代に造られたディオクレティアヌスの橋」、その橋の上に建つ「マドンナ·デル·ポンテ大聖堂」、アポロン神殿の跡地に建てられたファサードが素晴らしい「サンタ·マリア·マッジョーレ教会」、そして、キリストがパンを肉に変えた聖体が祀られている「奇跡の教会」がある。この「奇跡」を見るために、熱心なキリスト教信者が各地からやってくるというのだ。

ミラノ市内のタクシーが全てストのこともあった

期間も五年間で古典様式でできた「フェナローリ劇場」も、音楽家なら一度は足を踏み入れたい場所だろう。現在のランチャーノは、古代でもそうであったようにエレガントで活気がある町という印象を受けたギリシャ人が造った紀元前の町歴史書を見ると、ランチャーノの歴史はなんと紀元前11八一年にまで遡れるという。古代ローマの詩人ウェルギリウスが著した『アエネーイス』というのがあるが、この話は「トロイの木馬」で有名なトロイア戦争でトロイアが滅ぼされた後、この国の英雄アエネーイスが受難と苦闘の末にイタリアに辿り着くまで描いた一大叙事詩である。そのアエネーイスと一緒にイタリア半島に辿り着いたソリムスというギリシャ人がこのランチャーノの町を造ったといわれているギリシャ人は、ギリシャ神話などの宗教や都市生活などさまざまな文化をアドリア海沿岸都市に持ち込んだのだ。こうしてイタリア半島にギリシャ文化が入り、土着のイタリア人フレンターニ族と異種交配し、交易を拡大し、ローマ帝国時代にはその重要な一都市となり、ローマとアドリア海を結ぶ貿易都市として発展した。

ローマへと旅している

ミラノのゴミの量が減らないのに業を煮やした近隣自治体と

海外保険に加入しておいた方がいいでしょう

さらに彼らはこの漆喰に火山灰を混ぜることにより、セメントのようにしてしまうのでした。これが未だにローマの遺跡が世界中に残っている理由なのです。さらにはなんと大理石の化粧張りをすることにより、今までの文化をさらに進化させるのでした。しかし、今ではこの大理石の化粧張りがすべてきれいに残っているところは、ローマのパンテオンくらいとなってしまいました。水道橋がローマを救う古代の文明、たとえばエジプト文明、黄河文明、メソポタミア文明。

ミラノに来て早々に先生について習い始めた

全ての古代文明はみな水源の近くに国家が建築されたのです。国家建築、繁栄に欠かせないものがやはり水源だったのですね。ところが、また国家の滅亡もこの水源が元となったのです。病気の蔓延、そしてこの根源が汚染された水源となるのでした。この事実に着目した古代ローマはなんと、川を水源とするのではなく、山中に湧く清い水を水源とすることに決めたのです。

 

川を水源とするのではなく

あなたの目の前で各自思い思いにクラクションを鳴らし続ける「バラ窓」とは、中世のキリスト教教会堂の正面壁面に設けられた円形窓のことである。バラの花に似ているためこの名が付けられ、聖母マリアの象徴でもある。同じくこの「バラ窓」がファサードに配されたパリのノートルダム寺院や、ドイツのケルン大聖堂に代表されるような天に高くそびえるゴシック建築とは全く違い、この建物の様式は大地に根づいた安定感があるこの大聖堂の正面には三つの扉口があり、どの扉の上にも「バラ窓」があった。ガイドブックによれば、中央の扉口の上にあるものがアブルッツォ地方で一番大きいという。建物の全体を把握したいと思い、左側の側面を見た瞬間、思わず足を止めてしまった。

イタリア旅行をされたら大変な騒ぎになってしまうのではないかと思う素晴らしい彫刻を施したもう一つの扉口がそこにあったからである。それは固く閉ざされた、「ポルタ·サンタ(聖なる扉)」であった。私はヴァチカンにあるサン·ピエトロ大聖堂の「ポルタ·サンタ」を思い出した。二五年に一度「聖年」の年だけに開かれるというあのブロンズでできた大扉である。「聖なる扉」の意味は後述したい。

ローマの伝統を守り

屋根の上は夏草に覆われ、遠くから見るとこんな壕があるとは到底判らない。半地下に降りる階段11カ所の内、1つの入口は扉が壊れており、まさに、夏草や強者どもの夢の跡、といった言葉にぴったりの光景であったが、前に人が入った形跡はあるものの、周囲ののどかな風景とは余りに対照的な、ひんやりと不気味な空気の建物の中に入る気はしなかった。ドロミテの岩峰を間近に望む静かな森の中にこんなものが潜んでいたのには驚いたが、この辺りは、今世紀初頭まではオーストリア·ハンガリー帝国とイタリアとの国境地帯だったところ。現在イタリア領となっているアルト·アディジェ州とベネト州の境界が当時は国境線だったため、第一次世界大戦が勃発すると国境線上の山岳地帯が、一躍戦略上の要所として脚光を浴びることとなった。連合軍側に属するイタリアもこの地域には山岳部隊を含む大量の軍隊を送り込み、要所要所にトーチカを築くのみならず、現在山小屋になっているような高所まで軍を駐屯させたそうである。

はるかに親しみやすい存在

簡単な解説書も数多くでているので一方、イタリアと国境を挟んで対峙するオーストリア軍も同様の構えを見せたのは当然で、あちこちで山岳戦が行われ、双方にかなりの犠牲者が出たという。今はトレ·チメ·ディ·ラバレド(ドイツ語ではドライ·ツィンネン)という岩峰の絶好の展望台としてアルピニストで賑わうロカテッリ小屋(ドライ·ツィンネン·ヒュッテ)も、オーストリア軍の山岳拠点として使われた経緯がぁり、この山小屋では当時の事情を解説した「ドライ·ツィンネンの戦い」というドイツ語の書籍を販売していた。ドロミテを歩くと、当時の山岳戦の名残がトーチカ以外にもあるが、今もアルピニストの役に立っているのはあちこちの岩山に掘られたトンネルであろう。トンネルと言っても人一人が立って通れるくらいの大きさで、せいぜい数メートルから数十メートル程の長さだが、固い岩盤が幸いしてか、当時軍用に掘削されたトンネルの殆どは今でも利用可能である。これらのトンネルは、あちこちの登山ルートに組み込まれており、固定ワイヤーを伝って岩を登って行くと突然トンネルで岩尾根を抜けたりするので、ちょっと驚かされるてんな登山は他では経験出来ないであろう。

イタリアでこんにちはボンジョルノは魔法のことば

イタリアの特徴と言って良いと思います

セニウスが父の殺害をうけて馬に乗り、北へ逃れて、かの地で興したのがシエナであるという異説がある。実際にはシエナはラテン人ではなくエトルリア人によって建てられた街だが当のシエナの人々だけはこの異説を信じていた。というわけでシエナでも、主な広場やドゥオーモの前などそこかしこに、雌狼と双子の姿を見ることができる。そこには、自分たちの街が、大ローマの建国者の血をひく者によって創られた、由緒正しいものであるとみなすシエナ人の強い自負がある。それほどの自信を抱いても当然なほど、シエナは-とくに中世において豊かな時代を謳歌した。

ローマ帝国の最大版図をなしえた皇帝としても名高いトラーヤーヌス


ミラノの街中でも私は小さな教会が点在しているのに気がついた

>イタリア生まれのヒルデブラントが今でも、シエナを本拠とするモンテ·デイ·パスキ銀行がイタリアを代表する銀行のひとつであるように、街は金融業で財をなした。山ひとつ越えたところにある隣町フィレンツェは、中世末期のヨーロッパにおける一大金融センターとなっていたが,シエナも一時期は肩を並べるほどの成功をおさめていた。都市国家同士が争う戦国時代にあって、両者は常に対峙しあうライバルであり続けた。フィレンツェが一貫してローマ教皇を支持すれば、シエナは神聖ローマ皇帝側の陣営の雄となった。たいじ文化面でも、両者はお互い一歩も譲らなかった。


フィレンツェに活動の拠点を移すセル·ピエロにとって願ってもない良縁だった

日本で大地震が起こるとは

成立して間もないキリスト教はまだ力を持ってはいなかったと考えられるだろうその日のおすすめ料理を食べてみたいと思うなら、材料を持ってくるとか、英語、ちゃんとしたお店であれば、ぜひチャレンジしてみてはいかが。さて、料理の頼み方です。イタリア料理のみならず西洋料理はコースで出て来るのは、皆さんご存じの通り。前菜の西洋料理の流れで、イタリア料理も基本は同じですが、最も異なるのがスープの代わりにパスタが出て来ること。スープメイン→デザートと言うのが、普通イタリア料理の順番は、アンティパスタ(Antipasta=前菜)プリモ(PrimoPiatto-一皿目、ルチェ(Dolce=デザート)→カフェ(Caffe’=コーヒー)または食後酒、と言う流れです。キエティは一層華やかな歴史の光景に包まれていくパスタかスー7)→セコンド(SecondoPiatto=一皿目、肉か魚)→ドパスタがスープに入っている料理も地方によってはありますが、パスタはスープが陸に上がった姿だと思えば判りやすいかも知れませんね。パスタにはお馴染みのスパゲッティを筆頭に、生麺のタリアテッレやタリオリーニ、短いパスタのペンネ、ジャガイモで作ったニョッキ、それにお米のリゾットも広義のパスタに含まれます。迷ってしまいますね。あ、ちなみに日本ではいつの間にかスパゲッティのことを「パスタ」と言うようになりましたが、これはあくまでも日本的表現。イタリアのレストランで「パスタをください」と聞くと、「は???」と言われること間違いなしなのでご注意ください。


イタリアの恥部として映った

そしてかの東ローマ帝国は、第4次十字軍によるコンスタンティノポリス略奪後、亡命政権をたてて抵抗。そして約60年後首都奪回。しかし弱体化した東ローマ帝国を、モンゴル、セルビアなどが攻撃してくるのでした。そしてとうとう1453年4月、オスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世率いる10万の大軍勢がコンスタンティノポリスを包囲しました。東ローマ側は守備兵7千という圧倒的に不利な状況の中、2ヶ月近くにわたって抵抗を続けるのですが、5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落。

イタリア側にあるチェルビニア

遅くとも予定出発時刻の20分前には駅に到着していたいものです皇帝コンスタンティノス11世は部下と共にオスマン軍に突撃して行方不明となり、東ローマ帝国は完全に滅亡するのでした。これによって、古代以来続いてきたローマ帝国の系統は途絶えることになるのです。2000年、ローマ教皇ヨハネ·パウロ2世は十字軍や異端審問などについて「異端に対する敵意を持ち、ました。さらに、2001年には十字軍による虐殺があったことを正式に謝罪しました。これはカトリック教会にとって、十字軍の評価に対する大きな転換だったのです。

ローマ帝国が崩壊した後

イタリア国内にも幾らでもカラバッジョの人物画はあるだろうに

イタリア半島にギリシャ文化が入り
書物によると、マルコのいうミトラ教とは、ペルシャで発生し、ゾロアスター教の太陽神と同様、太陽神ミトラスを主神として人気を博した宗教とある。古代ローマ帝国へ流れ、帝国内の軍隊に人気のあった神だった。キリスト教の発生とほぼ同時期にその姿を消したといわれるが、部はキリスト教へと受け継がれたようだ。魂の不滅や最後の審判、点も共通しているミトラ教の習慣と教義の一さらに死者の復活を信じる私は、点と点が線になったような、ぼんやりしていた画像が鮮明になったような気がした。ということは、回文に隠された「われらの父」という言葉は、キリスト教のキーワードであるが、実はミトラ教のキーワードでもあったと言えないだろうかキリスト教は、紀元1世紀の設立当初はローマ帝国の側からはユダヤ教の異端程度にしか思われていなかった。

そして今のスイス、フランスを8年がかりで完全に掌握。勝利のたびに戦利品、つまりシーザーの個人の財産が殖える仕組みにより彼は巨万の富を手に入れるのでした。しかしこうした英雄の誕生は他の者のねたみを買ってしまいます。ローマの元老院議員の多くが反シーザー派になっただけではなく、縁続きでうまくやっていけると信じていた三頭政治の一人ポンペイウスがシーザーを蹴落とす作戦に出たのです。といって、海外領土を一挙に増やした常勝将軍を理由なく追放はできないと、そこでポンペイウスは巧妙な作戦を考えつくのでした。

ローマの市民権を与えていたのです

ガリア州総督をつとめるシーザーに対して、兵をつれてイタリアに入国させないと通告したのです。ローマに戻るなら軍の指揮官を辞任しろと。つまり丸腰で戻れということで、これは当時の習慣では逮捕、処刑を意味していたのです。彼は部下の兵をつれ、北部イタリアのルビコン川で立ち止まったのでした。というのも、このルビコン川がイタリアとガリア植民地の支配権との境界線になっていたのです。

その行く手を阻む敵がいた


ローマからほど近いこの街は教皇派ゲルフの牙城として機能したヨーロッパにおける宗教の歴史を私なりに振り返ってみた。マルコの家を後にしてミトラ教からキリスト教へ受け継がれた「シークレット·メッセージ」古代ローマ人の宗教はギリシャ人と同じく多神教であった。例えばギリシャの最高神のゼウスはローマではジュピターであったし、ギリシャの美の神のアフロディーテはヴィーナスであった。あるいはエジプトの女神イシスはそのまま受け入れられていた。さらに一神教であるユダヤ教も受け入れられていた。

嫌な予感がしたが

書物によると、マルコのいうミトラ教とは、ペルシャで発生し、ゾロアスター教の太陽神と同様、太陽神ミトラスを主神として人気を博した宗教とある。古代ローマ帝国へ流れ、帝国内の軍隊に人気のあった神だった。キリスト教の発生とほぼ同時期にその姿を消したといわれるが、部はキリスト教へと受け継がれたようだ。魂の不滅や最後の審判、点も共通しているミトラ教の習慣と教義の一さらに死者の復活を信じる私は、点と点が線になったような、ぼんやりしていた画像が鮮明になったような気がした。ということは、回文に隠された「われらの父」という言葉は、キリスト教のキーワードであるが、実はミトラ教のキーワードでもあったと言えないだろうかキリスト教は、紀元1世紀の設立当初はローマ帝国の側からはユダヤ教の異端程度にしか思われていなかった。

イタリアに行ったら積極的に使ってみましょう


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天気予報、日の出日の入りの時刻、女性なら気になる紫外線情報など、全方位的に天気を知ることができます。旅行中の当日·翌日などの天気が明確になることで、スケジュール変更も容易となり、海外旅行者に人気が高いアプリのひとつです。観光案内アプリ地図で雨の様子が確認できるというのも旅行会社やガイドブックの出版元などで、さまざまな観光案内アプリを出しています。グアムの基本情報や観光地の紹介はもちろん、グルメやショッピング、エンターテインメントスポット情報が詳しく載っているので、計画的に旅をしたい方におすすめです。グルメサイトアプリ現地のグルメサイトアプリを入れて、ン、穴場的なお店が見つけられるかも。

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フィレンツェを離れまたはドイツ風コヒーという言い方で注文せねばならないが

イタリア人には余り関係のない料金を問い合わせると

アブルッツォの各都市は異次元の官能に溢れていました。風景を台無しにする宣伝広告も自販機もコンビニもなにひとつありません。あるのは中世そのままの家並みとひっそりと佇む教会でした。「絵」になる町が数知れずありましたアブルッツォ州はイタリアのどこからも簡単にアクセスできる実はとても便利な場所でもぁります。アブルッツォはいわば二一世紀の「ニューツーリズム」といえましょう。

プランの加入前に


バチカン市国が成立したのでした

>事実町中の書店で売っている「ブランド品を買う」「スパゲッティを食べる」「ローマを観る」という組合せを十分味わった人は、次はアブルッツォで「温泉に入る」、郷土料理や土地の食材を使った「スローフードを食べる」、土地の「歴史を学ぶ」、そして「大自然を体験する」という組合せを試みてはいかがでしょうか私はこのアブルッツォに魅せられ、「バンドラの箱」を開けてしまいました。山に海に町に、楽しみ満載のアブルッツォからは、もう、目が離せない、というのがこの旅の感想でした。未だ多くの謎を含んだ歴史上の秘境、それがアブルッツォの宿命であり魅力なのだと思います。それと同時に、アブルッツォに行く前には気づかなかった自分に出会うことができたことで、わたしの思考も生き方も大きく変わりました。今ではアブルッツォの大地と運命が私の細胞に深く浸透していると思わずにはいられません。


イタリア人がそうやって頼んでいることもありました

なかなか負担が大きい訳だが

ローマ教皇を支持すればこれによると、小プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂の火口付近から、松の木のような形の暗い雲が山の斜面を急速に下り、海にまで季崩れ込んだのを見たと記録しているのです。火口から海までを覆ったこの雲は、現在では火砕流として知られております。これは火山が噴火したときに、高温ガスや灰や岩石が季崩れのように流れる現象です。さらに灰がどんどん積もり、海の水がみるみる引いていった後に「津波」がおきたのです。小プリニウスの記述には、太陽が爆発によって覆われてよく見えなかったと続き、大プリニウスはこの現象を調査するために船で再び陸に向かったのですが、窒息死するのでした。ローマ人のお風呂好きの名残なのでした二酸化炭素中毒によるものと現在では考えられております。噴火直後に当時のローマ皇帝はポンペイに使者を出すのですが、た市民が多くいたのでした。市は壊滅したあとでした。市民の多くが火砕流発生前にローマなどに逃げていたのですが、火砕流が発生した時に市内に残っていて助からなかっ発掘された肖像画、フレスコ、国立ナポリ考古学博物館にて噴火によって壊滅した後は二度と集落が作られることはなかったのですが、とは知られていました。その後1000年以上「町」という地名で呼ばれていたこと、そして散発的に古代の品が発見されていたので、下に都市が埋まっているこそして決定的な発見が1594年から1600年に掛けて、サルノの谷を開墾の為に建築家メドニコ·フォンターナが円形劇場付近を掘り始めた時です。


イタリアの米の収穫量は百三十三万トン

土足厳禁である。跪いて上るかどうか悩んだが、先を急ぐ私に心の余裕はなかったため、結局木の階段と並行して作られている石の階段を上った。老いも若きも、富める者も貧しい者もゆっくりと一段上るごとに、祈りをささげてきた証は、すり減った階段を見れば一目瞭然であった。厳格に守られてきた信仰の尊さが伝わってきた。すべての階段を跪いて上って「罪が赦される」というならば、ゆっくりと上ってみたいと密かに思う人は少なくないだろう。

イタリアで錠前屋を営むのは結構いい商売かも知れない

地図を見ればすぐ判る通りイタリア半島に魅特にアトリ「童話『アトリの鐘』の世界へ」カンプリの町を後にして次に目指したのはアトリという町であった。なぜアトリを選んだかといえば、子供の頃、母が読んでくれた『アトリの鐘』という童話を思い出したからである。その町がイタリアのアブルッツォ州に存在していたという驚きは、瞬にして子供時代の懐かしい思い出と記憶を呼び起こしてくれたのだった。一イタリアのもう一つの風景「カランキ(バッドランド)私はカソブリから国道をひたすら南下した。南下するに従ってまばゆい太陽が降り注ぎ、然の恵みを強く感じ始めた。

真白き衣にて覆われる

日曜日は00リラと言った具合にメーター以外の追加料金がかかる場合が多い

フィレンツェ女性たちの注目を!身に集めていた
こちらは入場無料。ショップの一角からはゴールポストを通してスタジアムの内部を見ることもできます。スタジアム見学ツアーと博物館を見たい方は、地下鉄を降りてスタジアムの左手の方に回ると入場門がありますが、こちらは有料(2016年9月現在で大人が17ユーロ)です。ご興味のある方はぜひご覧になってください。ショッピングはイタリア人との交流の場ショッピングは人それぞれ求めるものが違うので、なかなかアドバイスが難しいのですが、イタリアでは専門店、それも個人商店に近い店がまだまだたくさんあって、個性豊かな揃えをしていると言う点をまず頭に置いてもらうことでしょうか。

途中、エトルリア時代の墓が出土したりしながら、井戸は10年近くかかって一五三七年にようやく完成。水を汲んで昇るロバと降りるロバとが途中でぶつからないよう二重螺旋階段になっている。オルヴィエート最大の見どころは、街のサイズに不釣り合いなほどに巨大な大聖堂である。きらびやかなモザイクや繊細な浮き彫りに覆われた重厚なファサードの、幾何学的な調和が美しい。内部には、この大聖堂の名を一層高めた「サソ·ブリツィオ礼拝堂」がある。

イタリア人が観光客が来なくなり

ここは壁一面、おどろおどろしい主題によるフレスコ画で埋めつくされている。この世の終末と,最後の審判にそなえて地中から復活する死者たち0悪魔たちに捕らえられ、地獄へと連れていかれる人々。その一方では、神によって選ばれた人々が天国へと迎えられている-。mハネの黙示録』を題材にした一連の地獄絵図は、しかし不思議と、さほどの恐ろしさを観る者に感じさせない。このことは、画家ルカ·シニョレッリによる色彩が非常に明るいことに主たる原因があるだろう。

シエナの縄張りだった


アルト·アディジェではドイツ語と冬場の試合は足元が大変冷え込みます。厚手の靴下、底の厚い靴をまたプラスチックの座席も冷えますので、なりますよ。スタジアムの外で売っているチームのマーク入りのクッションを買って使えば思い出になるし、きっとよいお土産にもサッカーシーズン以外の訪問でも大丈夫イタリアのサッカーシーズンは例年8月下旬から翌年の5月中旬まで。それ以外にもチャンピオンズ·リーグやヨーロッパ選手権などが行われることもありますが、ミラノのサンシーロ·スタジアムではたとえ試合が行われていない時でもサッカー場を見学することができます。2015年夏に開通したばかりの地下鉄5号線のサンシーロ·スタジアム駅を降りると巨大なスタジアムが見え、右の方に行くとスタジアムの·階に併設されたプロショップに入れます。

ローマに多いのは事実だが

こちらは入場無料。ショップの一角からはゴールポストを通してスタジアムの内部を見ることもできます。スタジアム見学ツアーと博物館を見たい方は、地下鉄を降りてスタジアムの左手の方に回ると入場門がありますが、こちらは有料(2016年9月現在で大人が17ユーロ)です。ご興味のある方はぜひご覧になってください。ショッピングはイタリア人との交流の場ショッピングは人それぞれ求めるものが違うので、なかなかアドバイスが難しいのですが、イタリアでは専門店、それも個人商店に近い店がまだまだたくさんあって、個性豊かな揃えをしていると言う点をまず頭に置いてもらうことでしょうか。

十字軍は純粋に軍人だけで構成されていたわけではなく


ヨーロッパではいとも簡単に国境を越え隣町に行くような感覚で隣の国に行く
長いことお世話になった英国には申し訳ないが、田舎のパブに入ったらまず食事の質に期待できない英国とは対極である。日本人にとって、イタリアと言えばまずスパゲッティを思い出すのもやむを得ないが、意外と知られていないのがイタリアがヨーロッパ有数の米どころという点だ。ちょっと古い資料だが一九九三年のイタリアの米の収穫量は百三十三万トン。日本の千二百万トンとはもちろん比較にならないが、元々米どころであったベトナムが二百二十万トンなのと比べればそこそこの量と言えるであろう。イタリア料理に詳しい人は米を使ったリゾットが北イタリアの名物料理であることは知っているが、それでもミラノから五十kmも酉に走ると高速道路の両脇が一大水田地帯となっているのには驚くようである。

ミラノへ向かい

私もミラノに赴任してきた際、マルペンサ空港に着陸する飛行機から見えた、地平線まで一面に広がる水田の光景は強く印象に残っているが、ミラノ·トリノ間の高速道路から見える、水田を隔てはるかに雪のアルプスを望む景色は信州と言っても通用してしまう。日本人には懐かしい光景である。日本で米の大凶作時、海外(特に中国·東南アジア)からの長粒米が輸入され、数年前、印象が強烈なせいか、多くの日本人もイタリアの米はインディカ種の長粒米だと思って当地に来訪されるのだがイタリアでス我々も、普通にスーパーで米が入手できるのは楽である(しかも価格は日本の四分の一から五分の一)。消費者に不評であったーパーマーケットに行けばすぐ判るが、いわゆるジャポニカ種の短粒米が多い。従って、住んでいる同じ短粒米と言っても種類は多く、粒の大きさも味も千差万別。

イタリア郵便当局のお世話になる必要があるのは

断面は丸ではなく四角いのが特徴で

海外定額プランを使ったとします
イタリアの町は戦災のあとも昔の通りに復元された町並みが多いから、町の雰囲気は戦前とそう変わってはいない。明るい太陽を浴びている街角を見ただけでは想像もつかないが、ちょっと気を付けて歩くと厳しい歴史の断片が当時の面影を残す町並みのあちこちで見つかる筈であるイタリアでは各都市の守護聖人があって、その日は休日になる慣習だ。ちなみにミラノでは十二月七日が守護聖人であるサンタンブロージョ(聖アンブロ-ジョ)の日。この日はもちろんミラノの休日で、またスカラ座のオペラ開幕の日でもある。初日のオペラのチケットは一般にはまず入手が困難なので、誰でも楽しめるという訳には行かないが、同じ日に誰でも気軽に楽しめるのがサンタンブロージョ大聖堂前の広場で開かれる縁日である。

お湯を沸かすだけでひと苦労かもしれない。日が落ちれば活動はたちまち停止するだろう。冬には窓や戸と岩の隙間から冷たい風が入ってくるかもしれない。広さも限られているので、持ち物は身の回りの最小限のものにとどめておかねばならないだろう。しかし,どこのサッシでも、ひとつの部屋で家族全員が寝ていただろう。

フランスなどに支配された歴史を持ち

ここでは共同生活は必然なのだ。そしていくつもの家族が横穴でつながり、さらに大きなコミュニティの全体が、日曜日になると洞窟教会に集まったことだろう。人々は水がめを共有せねばならず、お互いをよく知っていて、お互いに犠牲を払いながら助け合いつつ日々を送ったことだろう。おそらく、私を含め、現代の日本人はサッシでの生活に耐えられない。その衛生環境に、その不便さに、濃密な人間関係に。

ローマ皇帝ハドリアヌスが


やはり雰囲気はモンテローザここは作曲家のベルディなども葬られている由緒ある墓地で、大理石と御影石をふんだんに使った門構えが余りに立派なために、初めて見たときには墓地の玄関ではなく、どこかの博物館かと思った位である。そこまで立派でなくともどこの田舎町やひなびた村にも周囲を壁で囲まれた墓地が必ずあり、これまた必ずと言ってよいほど何時も花や灯明が供えられているのは何か日本の田舎のお盆を思わせる心和む光景である墓地ではないが、色々な町へ行くと見かけるのは戦没者の記念碑で、ちょっとした田舎町の広場には必ずと言って良いほど戦没者名を刻んだブロンズがはめ込まれた慰霊碑が建っている(第一次,第二次両大戦の慰䨩が多い)’日本でも同じ様な慰霊碑があるからさほど場違いな感じもしないのだが、よく街角の建物の壁に簡単な説明の石板がはめ込まれ花束が備えられているのを見ることがある。辻毎に祭られているマリア像へのお供えかと思ったらそぅではなく、これも戦没者の慰霊碑なのであった。つまり、第二次大戦中ドイツ軍に対しゲリラ活動を行ったバルチザンが街角のあちこちで銃殺されていたのであるミラノの郊外にビジェバノというこじんまりとした美しい町があるが、ここの十五世紀の城の中庭にも、多分その場所で処刑されたのであろう、イタリア人の若者の名前がいくつも刻み込まれた石板が城壁に墓銘碑のようにはめ込まれていた。どんよりと曇った肌寒い日であったので、思わず背筋がぞくぞくしたのを覚えている。

ローマ時代に造られた海底に沈んだ港もさらに追加した

イタリアの町は戦災のあとも昔の通りに復元された町並みが多いから、町の雰囲気は戦前とそう変わってはいない。明るい太陽を浴びている街角を見ただけでは想像もつかないが、ちょっと気を付けて歩くと厳しい歴史の断片が当時の面影を残す町並みのあちこちで見つかる筈であるイタリアでは各都市の守護聖人があって、その日は休日になる慣習だ。ちなみにミラノでは十二月七日が守護聖人であるサンタンブロージョ(聖アンブロ-ジョ)の日。この日はもちろんミラノの休日で、またスカラ座のオペラ開幕の日でもある。初日のオペラのチケットは一般にはまず入手が困難なので、誰でも楽しめるという訳には行かないが、同じ日に誰でも気軽に楽しめるのがサンタンブロージョ大聖堂前の広場で開かれる縁日である。

簡素化をはかるのです


ローマ大学で法律を学んでいた時
普通のケーブルカーは二台で往復し途中で線路が分かれて上りと下りの車両がすれ違うのだが、この路線は1台のケーブルカが標高差八百メートルを往復している。屋根はガラス張りで、向かいのアルプスがよく見え、展望エレベーターのようでもある我々が乗りに行った時は六月のよく晴れた日曜日というのに、乗客は我々家族だけ。到底黒字経営とは思えずスタッフはたった一人。この乗務員が、切符の発行、改札から、運転、折り返し駅での車内清掃まで全て一人でこなしており、よく働くのには感心した。車内や駅の掃除をするのを見ていると、如何にもこのケーブルカーに愛着を持っている様子が傍目にもよく判り、山の空気同様爽やかであった。

引ったくりといった窃盗被害が多いので

スイス国鉄の職員なのだろうが、この仕事が余程気に入っているに違いない。スイスのイタリア語圏の中心地であるルガノはミラノから車で1時間ほどの、市内に登山ケーブルカーが一カ所あるルガノ湖畔に面した美しい町だが一つは市の南にあるモンテ·サン·サルバトーレで、ミラノからの高速道路がルガノ湖を渡ってすぐにトンネルで通り抜ける!もう一つは市内東側の湖畔に聳えるモンテ·ブレ。何れも標高九百メートルほどの高さだが、ルガノ湖を上から見渡し、アルプスの山々を展望するという点では甲乙付けがたい。どちらも路線が上下の二本に分かれ、山麓から乗ったケーブルカーを途中で乗り継ぐ点も同じだ。どちらかと言えばモンテ·ブレの方が開発が進んでおり、中腹までリゾート·ホテルが立ち並んでいるが、山頂付近は鬱蒼とした森で、夏など実に風が心地よいこのケーブルカー、山麓からの1本目は距離は短いものの完全に無人運転で駅にも車内にも人がおらず、警告灯とブザーが発車時刻を知らせると勝手にドアが閉まって発車したのにはびっくりした。

イタリア各地から来ている観光客ばかり

ローマではコルネット

そしてその土地の領主となっていくのだ。町が落ち着くのは11世紀、初代シチリア王ルッジェーロ二世の時代であった。さまざほな民族の手にゆだねられながら、この町は生き延びてきたことがわかる。誰もがこの地を征服したいということは、それだけ魅力的で豊潤な地域だったからに違いない。テラモは夏のバカンスシーズンにゆっくり訪れたいところである。

チェファルーに伝わる伝統行事


中部の法王領に対し

>歴史は繰り返すのだろうかチヴィテッラ·デル·トロント「迷宮のような町」これから向かう「チヴィテッラ·デル·トロント」た町だと歴史書に書かれていた。「ナポリ王国?」は山の斜面を利用してナポリ王国が造っこの言葉を目にした瞬間に、イタリアの歴史は再びおそろしく複雑だと感じた。ローマ帝国からドイツ人の支配する神聖ローマ帝国の皇帝フェデリコ二世まではすんなり頭に入る。だが次にフランスのアンジュ-家、さらにスペインのアラゴン王家と、多くの異民族に支配されるようになると、イタリアの呼び名まで違ってくるので、毎回、時代の流れを整理していかないと頭が混乱してしまう。だが、これまで歩いてきた町の歴史の流れを追っていけば、理解が深まっていくに違いない。


ローマ時代に造られた円形大闘技場

イタリア人気質がわかる今や日本のサッカー選手も世界で活躍する時代となり

この時に役に立ったのが小型のラジオだだけで終わるつもりだったが、どうも生ハムとパスタの話だけでまるまる。終わってしまった。事ほど左様にイタリアの食事は奥が深いのだが、イタリアにはこれしかないと思われるのも具合が悪いので日頃我々が食べている他の食べ物も紹介しておこう。ラノでも曜日を変えて、街のあちこちにメルカートと呼ばれる青空市が立つ。メルカートとは英語のマーケットの意味だが、とにかく産地直送の野菜と果物の宝庫だ。訪れる人にとって野菜は普通のスーパーマーケットでももちろん売っているが、メルカートとは新鮮さと種類の豊富さが段違いである。家内も最初の内は言葉もわからないし、あちこちに立って威勢良く客寄せをする八百屋のお兄さんやおばちゃん達に恐れをなしていたのか、余りメルカートへは行かなかったが、最近はすっかりお馴染みになってしまったようだ。売っているものが新鮮なのは当然として、何と言っても安いのにはびっくりする。レモンが七-八個で千リラ(七十円)、イチゴが机の引き出しほどの木箱に入って五千リラ(三百五十円)、トマト1キロで二千リラ(百四十円)等々と言った具合。日本から来た友人が、イタリア料理が好きで自分でもよく作るのだが、ズッキーニが一本七百円もすると嘆いていた。


ちょっと不思議な気がする

べリスクがあります。また最初の教皇庁が置かれた場所なので、装飾がほかの教会よりも比較的派手で金色の飾り付けが目につきます。大聖堂前の広場には、エジプトから運ばれたオ★サン·ルイジ·デイ·フランチエージ教会カトリーヌ·ド·メディチが土地を提供し、ジャコモ·デッラ·ポルタの設計した教会。フランスの歴史を想起させる彫刻などがあり、ラヴァッジオによる3枚のバロック絵画があり、美術愛好家であれば一度は訪れたい場所になっています。ローマのほかの教会とは違った雰囲気を醸しだしています。

イタリア国鉄の特急電車の愛称で

イタリア人の方々に心より感謝申し上げます内部にはカ美術館、博物館★ヴァチカン美術館これまでにヴァチカンに集められた収集品を展示している、世界最大の美術館。ヴァチカン宮殿内にある複数の美術館が集合して作られており、美術に興味がない人でも絶対に知っているような、残す名作中の名作が多数展示されています。美術館見学のコースでは、システィーナ礼拝堂のミケランジェロによる天井画「創世記」や壁画「最後の審判」も観賞することができます。歴史に名を★ドーリア·パンフィーリ美術館ドーリア·パンフィーリ家の宮殿を,部使用して、所蔵品の展示を行っている美術館です。壁という壁が絵で埋めつくされていると言っても過言ではないくらい、のマリア」などカラバッジョの代表作やフィリッポ·リッピの「受胎告知」などが展示されています。