教育で得た収穫である。

子どもが求められてくることは間違いありません。

こんなふうに言ってくださると、私自身、ひとに支えられている自分を感じます。
こそこっちがありがとうございますなのですね。
それ

PTSDやトラウマはどう癒されるのか

あの大震災のあと使われ出したことば神戸の大震災以後、心的外傷後ストレス障害ということばやトラウマといPTSDよく耳にするようになりましたう心理学用語が一般化され、神戸に生まれて神戸に育った私は、長田区でも山側の被害の少ない地域でしたが、あの朝の激震で
ああ、死ぬってこんなにあっけない成り行きなのかと感じるすごさを体験しました。自宅は瓦屋根を葺き替える程度ですみました。縁者の安否を確かめるためにまだあの大火災が起こる前の壊滅直後の街中を、どうにか車の走れる道路を選び選び走りました。現実感のわきようのない、まるで昔の地獄絵の絵巻物の中へ自分が夢遊状態で放り込まれているとしか思えませんでした。阿鼻叫喚の筆舌に尽くし難い有様に、ただただ意識は茫然としたまま、いったい自分があれからの数カ月、どういう日々を過ごしたかを正確にはとても覚えてはいません。
子どもに対する評価

子どもの可能性は大きく広がることでしょう。

あびきょうかんぼうぜん強烈な恐怖体験後、おびえの記憶が残って心の緊張が続き、日々の生活に支障をきたすというさまを、心的外傷後ストレス障害PTSDと言い、神戸の子どものPTSDについては、震災後、何年も残る大きな課題として取り沙汰されているわけです。
悪夢的な悲惨な体験を持った方が、それ以後何をするにつけても、その記憶の痕跡に拘泥させられ、正常な精神状態にはおれないことを、トラウマが残っているといい、このトラウマということばも、あの震災後、よく使われるようになりました·一生涯残り続けるのかPTSDやトラウマは、そのひとの心に一生涯重圧であり続けるしかないのでしょうか。

 

学校でも同じなのですが最近ない

もっと一般的な現象として、心が不自然な圧迫をうけて、のびのび、生き生きとすることがおさえられる状態を、ストレスを受けるといいますが、いろんなストレスを味わうということは、それだけで単にマイナスの要因でしかないのでしょうか。
大激震の日の夜が来て、被害地に追いうちをかける大火災の猛煙が赤々と広がっているのを、高台に位置する自宅から一望にした私は、引き続きやってくる余震のおびえに心の芯まで冷え固まって震えながら、しきりと、あの悪夢の再来なのだ、と繰り返し口の中でつぶやいていたのですそれより何十倍何千倍も真赤に焼けただれたちょうど半世紀前の神戸の夜空を思い出していたのです。
それは子どもの頃の、太平洋戦争末期の大空襲被災の夜の記憶でした。
かいじんこのたびの震災の比ではなく、一夜明ければ見渡す限り灰燼に帰していた日。
があざやかに心によみがえってくるのでした。
あの光景決定的な痛みの数々しょういだん敵機B29の幾編成もが、無数の焼夷弾を次々と落としていく。恐怖の体験であるのに夜目に、来襲する飛行機から放出された一つの光の矢が落下の途中で炸裂して数十の光の放列に変わるのは、光の饗宴と見ほれる美しさでした。
経験が今はじまったば
父親としてはいたず

学校に行くことが辛いように言うというのです。

圧倒的なこわさをつい忘れてきれいと思う瞬後に、ヒューと音を立てて、その一発が逃げ惑う私たちの至近の草むらにドスンパチパチと落ちて猛火を発しました。
さくれつきょうえん今だから、こんな客観的な書き方ができますが、当時の私は子ども心に、なぜ戦争というものがあるのか。この敵機襲来はアメリカ軍上陸へと引き続いていくのか。どんどん
殺されて、もう逃げ惑う余地もなくなるのだろうか
とおびえる毎日でした。こわくてこわくてたまらなく、これはもう生半可なPTSDやトラウマの話どころではなかったわけですその恐怖たるや、ストレスなんてものではありませんでした戦争が終わってからの、飢えの体験もまた、ことばで語れるものではありませんでした。食べるものがない、腹がへってもどうしようもない。母が、一切の食料が底をついているのに、さあ、お好み焼ができたよと私たちを狂喜させた日があります。

大学院に進むのは大いに結構だ。

みんなむさぼるように食いついて、一口ほおばったまま胃も心も意気消沈みじめの限りもそのはず、困りぬいた母のせめての工夫で、そのお好み焼たるや、生地は米ぬかで、刻んだ大根の葉だけが入った、油抜き、しょう油抜きの、得体の知れぬ代物だったのですからそれ究極の飢えに、このままだと、長くは生きられないのではないか
きの並のストレスとはどだい、質が違っていたと思います。
という恐怖は、今どストレスとどうつきあえるかストレスはストレスを超えることで、人間をよりしっかりしたものにしてくれるまたとない試練だと思っています。
PTSDやトラウマを軽視してはいけません。その状況下にあって、逃げも隠れもしないで、こっぴどい体験を、しっかりしっかり体験すること。体験したという記憶から早く逃れようとあせってはならないと思います。

もう二度とは消えうせない記憶と思う。だのにここはだけどはないのですねあと愉しいことや気持ちの安定の日々を重ねていると、いつか、その痕跡は消えていくのです。
大丈夫ですよ
積み重ねあるのみ、です。
私は戦後も、空襲警報のサイレンが街中に響くのがおびえの種でした。
母さんの意地悪!

子どもはどうしてもけがをします。


戦争中、街中の大会社や工場の始業開始や終わりを告げるサイレンが、長くどこまでも尾を引く時と違って、空襲警報の時は、短いのが十回続いて鳴りました。空襲警報で街中のサイレンが、ウウS、とうなりはじめる時、私はびくりとして息がつまることが癖になっておりました。
戦後もサイレンへのおびえがいささかも消えませんでした。死ぬまでこのおびえが続くかとさえ思ったものです、諦めに近い気持ちで。いつからそのおびえが消えたのでしょう明るい元気な日々の展開で、いつしかあのおびえは遠のいて、過去の記憶として、アルバムの単なる1枚の写真、それもセピア色の写真の印象になってしまいました。
心のさあ、現実に戻って。
なにかとストレスだらけの一日。
ストレスが起こるのがやむを得ない、共働きときれいごとを言うのはよ日頃、ストレスがあるような生活はダメだと、育児と主婦業の忙しさ。