しつけのきびしさでもわかります。

子ども達のだれかがひどいことをし叱

母親はあきらめました。
「先生に訴えるより、まずわが子に先生との相性が悪いなんて、そんな残念なことは、他にはあまりないと思う。久美子の残念さが分かるわと、徹底的に気持ちを分かっておやりなさい」
そしてそれが功を奏したようなのです。
どんどん久美子ちゃんが、お母さんに学校の話をしてくれるようになり、その分、学校でも積極的にクラスの空気に溶けこむようになり、意外と、もともとのこじれを久美子ちゃん自身が母親にさりげなく話してくれるようにもなったというのです。
そして、個人懇談の時、先生がこう言ってくださったのです「久美子さんには、正直言って自己中心のわがままなところが少し目立っていたような気がしますが、この頃すっかり変わりましたね。何があったのでしょうか。

取り決められた担任とどうも合わないただ、なんでも決まり通りで納得できない現実があり、社会と個人とのかかわりは無限
自我の確立だからこそ、ということがなんのむずかしさをはらんでいます。
としても大切になるわけです。
個々人の社会のきまりのどこを優先して、個人の自由のどの面を大切にするか。これが人間同士で話しあい感じあわれねばならないのです。自我の確立しあった者同士であればあるほどお互いの事情を分かりあい、社会と個人のかかわりについての工夫が柔軟に作り出していけるということになります。
なんといっても、教員の側の人格的な対応の努力が必要なのでしょうね「うちの子が、クラス担任のあなたがどうも自分にあわないといって、登校をしぶっているのです」と、ごく素朴率直な訴えがあれば、感情的に険しくなんとわがままな!

子どもがわめいてもそれにすぐ中途半端に反応して

とかそういうことを子どもに言わせ、またそれを学校に訴えてくる親の神経はいったいどうなっているのだとか、教員が親に反発してしまったら、事は陰湿なものになります。
担任先生がごく素朴に
うーん。申し訳ありません。
そうですか。
何ともいたらぬことですな!
といった具合に自分のうろたえを表白し、訴える母親と苦虫噛みつぶした思いを共有できれば、そこから何かがほどけてくるというものなのでしょうにね。
うーん、そんな率直で素朴な先生なら、もしれませんねえ。
それほどまでに子どもに嫌われるはずはないか自我の確立してない先生だっている
昨今では、「好き嫌いは、それ自体が自分の個性であり、今は個性尊重の世の中だから……」と息巻く若い人がたくさんいます。先生という職業についている人の中にだって、正直なところ、先ほどから繰り返している
自我の確立した円満な人格ではない人もおられます。どうにも悲しい現実です。それは確かに現実なのに、先生という職業自体がたくさんの子どもに囲まれ、その親たちにも触れる仕事である以上、そんなに狭く、固いばかりでおれるものでもないというのが、教師という職業のまぎれもない現実なのですね。

母さんは言いました。


勉強したのでです。子どもの依存性とは負の相関を示していた。覚悟を決めて、先生に体当たりしてごらんなさいよと相談で、親に勧めたことがあります
先生、私が親として上手な子育てができていないから、勝手な子になってしまったと反省しています。ですから、しっかり先生のお力に頼らねばなりません。先生、お気を悪くしないでね。うちの久美子が先生が好きではないから、学校、行きたくないって言うのです。こんな失礼なことを子どもが言ったからといって、そのままを先生ご自身に伝えるなんて、どうかしてる、と何度も何度もよそうかと思ったのですが、率直なことが一番早道とも思ったのですこういって体当たりしてごらんなさいよ、と私もまだ相談に慣れていない頃で、親にそう勧めるしかないと思いました。でも私の心の一方では、そう言って母親を勇気づけてやるよりもっと他に道はないのかと、迷っていたのも事実です。
·子どもの残念さを理解する結局、その時の相談で、私自身がこの母親に対して口にしたことばは、こうでした

子どもがさっと寛容さを示

「先生に訴えるより、まずわが子に先生との相性が悪いなんて、そんな残念なことは、他にはあまりないと思う。久美子の残念さが分かるわと、徹底的に気持ちを分かっておやりなさい」
そしてそれが功を奏したようなのです。
どんどん久美子ちゃんが、お母さんに学校の話をしてくれるようになり、その分、学校でも積極的にクラスの空気に溶けこむようになり、意外と、もともとのこじれを久美子ちゃん自身が母親にさりげなく話してくれるようにもなったというのです。
そして、個人懇談の時、先生がこう言ってくださったのです「久美子さんには、正直言って自己中心のわがままなところが少し目立っていたような気がしますが、この頃すっかり変わりましたね。何があったのでしょうか。

父親の仕事を具体的に知ることによって


子どもはトイレから急いで出ようとする
いやそんなことはどうでもいいことで、なんだかこの頃、担任の私の意図をよく汲んでくれて、クラスの大切なムードメーカーなのです。親御さんが力のある方なのだと、私は読んでいます。お母さんにお会いしたいな、と思っていたんですよ」
母親はすっかりうれしくなって、心がほこほこと暖まる思いでした。
お互いに責めあうことの険しさより、ほどけあう心の愉しさなのですね。
親子の関係改善をそれから後、クラスの母親の二、三人と会って話す機会があり、そこでなんとなく分かったのですが、横ド麻由という子が、なかなか活発で、はじめ先生が、なにかといえばこの子ばかりに期待している様子が、久美子ちゃんには淋しくてたまらなかったようなのです。いつからか、久美子ちゃん自身の生き生きした様子に先生が着目してくれるようになった……いや、先生に着目してもらえるようになったから、本人が生き生きとしてきたのではないか、ということなのです。
いずれにしても、もともとは自分と久美子の関係がよくなったからだと、母親は納得しています。子どもの気持ちを条件なしで分かってやること。

子どもにも不便はあるのです

聞いてやれたこと。そこが関係改善のすべての糸口になったのだ、と母親は自信が湧いてくる思いでした。
性への興味を上手に導く無関心がいいのではない性への興味関心について、わが子に限って何も心配がないからよかったと胸をなで下ろすのが良識と思っているお母さんがもしいらっしゃるなら、その親こそ良識どころか常識のない親だし、わが子のことが分かってはいないこと、甚だしい限りというべきです。
というと、何かいけないこととかうす汚いことだという極端な片一方の連想だけに走るのは困ったことです。
逆にけがれないもの、清く美しいものだけ教えるきれいごとというのもどうでしょうか。
人は生き物。ほ乳類霊長目ヒト科人類性の判断が、個々人それぞれに任されているという生き物は、人間だけです。


子どもの依存性とは負の相関を示していた。 子どもはみんな鼻から二本棒垂らしていた。 成績が良く

教育をやめるとか親

学校にしてもらうわけにはいかない。

しましょう。
あらゆるストレスが、自分をひとつ押しあげてくれるのです。
:でもいらぬストレスは、やはりいらないですねえ。
だのにねえの接続詞を、日頃の会話でも多用してください。
共生の喜びでこそ、ストレスが癒さのびのび共生のきっかけをれるというものです。
つかみやすいですよ。

しつけの基本がのみ込めたうれしさ

頭よりも心だと分かった時あるお母さんの話です。
伸ばしてあげてほしいのです

母さんが用意してくれた紙にお絵かきをしました。

私、頭と心の違いが、この頃やっと分かるようになった気がするんです。
なんだかうれしくて。……だって先日も、中三の吉信がこの頃、母さん変わったねとポツンと言って、私と目線を交わしあった時、その目と口元におだやかな笑いかけの表情がよぎっていたのですなんだかあり得ないことが起こっているようでした。そんなわが子の顔つきに気づいたこと、今までほんとうになかったのです。子どもの心が生き生きして、前向きに意欲がわいているようだ、と思える時。そんな時の、親の安心の気持ち。今までもそんな瞬間ってなかった。そんな時って、正直にそう受けとった気持ちを言ってやればいいんですねだのに今までは、叱りごとばかり口にしてた言うべきことは言ってやらなくては、とつい固くなって力むと、暗く重くなりがちです。
やめさせよう、と力んで努めたのに、子は逆に知られまいと隠れて禁止したことをする。

 

中学二年生のとき

痛い目を味わわせれば、懲りてやらなくなるかと思い、つい頭を小突いてしまったり叩かれた子が、反抗的にキッと親をにらんだり、変にメソメソして大仰にあやまったりするのを見て、このひねくれ方や口ばかりで泣いてごまかす子の態度が許せず、いたり、もっとひどい折かんにエスカレートするさらに叩日に日に激しくなって、ついに大変な悲劇が起こるというようなことにもなりかねない。
·ほんのかけらに過ぎなくても、プラスが…子どもの心の中に起こった、ほんのかけらにしか過ぎないようなものでも、それがプラス·ポイントのきっかけだ、と気づかせてやる。しっかりとことばでそう言ってやるといいですねすると、わが子と一緒に生きている現実が、ものなのですよなんだかいとしいという思いになってくるそして、自然と感謝の心をあらわすありがとうを子どもに向ける気になります。
先生はほとんどが女性。
成長する生き物なのですから。

母はケチをつけることもなく人間って不思議

少し、オーバーに言えば、
こんなかわいい子が、私の子。ありがとうの思いで日々満たされると、スープをこぼしたことや、まだ生まれてそんなに年月の経っていないわが子のてんやわんやの様子もいとしくなるのです。
少々のことぐらい、いろいろなマイナスも全部経験になる、と大目に見ていればいいのです。大目に見てやらねばいけないと力んだら、とてもじゃないが、大目になんか見てやれないのです。知らず知らず大目に見てやる気持ちになってしまっていると、力んだりする必要などなくなるというものですね自ずから律すること自律ということばがあります。自立は支えなしに自分で自分のことはする、という意味ですが、自律ってどういう意味だと思いますか。

子どもに与えるお手伝いの内容

これを多くの人は自らを律することと捉えがちですが、いささか違うのです。
みずかおの自律は自ずから、律すること
なのですよ
自分が気をつけてしなければいけないのだと力むことではなくて、
気がつけばいつの間にやらしてしまっていたということなのです。自ら
自ずからの違いは、そういうことですね。
自律神経は内臓の働きを司ってくれる神経ですが、まさにその自律であって、内臓一つひとつの動きなど、意識してはいません。
経験が今はじまったば

子どもも変わります


しつけの意味を、とにかくよいと思ったことをしろ、それをしろと押しつけることだと捉えると、それをいやがる子は、繰り返されるあまりにいやがる気持ちをしイつけることになって、しっかりいやがる癖をつけてしまうことになります。
どっちつかずの、プラスもあればマイナスも多いのが、普通一般の私たちの現実なのです。マイナス体験をした時、私ってこういうマイナスばかりなんだといわば無力感の強い捨てばちになるか、ああ、いい体験をした。このマイナスは生かせると明るいプラス点に転じ得るか。ちょっとした心の向きの違いが、先々の大きな違いになってゆきます。

先生になれる。

父親はまだ外へ出ているから分かるけれど

子供のことを本当に思っているからだという
陽太君は、家で親に見せるさわやかではきはきしたよい子ぶりと、子ども集団で見せるもうすでに板についたものになっているに違いありませ番長ぶりとの二面の使い分けが、んそう考えたほうがいいようです.陽太君のお母さん。
·親の前でのよい子
って?
長い相談の中で、陽太君のような例を、それこそいくつも眺めてきました。
親がよい子であれとわが子に強制し、少しでもわが子のよくない面が見えるとひどく叱り、許しはせぬと息巻くのが常であるために、子はやがて、親の見えるところでは徹底したよい子ぶりを発揮するのが習慣になってしまったわけです。

母親を亡きものにしたことで、歓喜の絶頂にいたというのです少年にとって、ひたすらよい子ぶりを発揮する超自我の化身のような自分を眺めて安心し、満足する母親の存在は、それほど心に重圧を課するうとましい存在だったのです
のつながりもまずまずの程度にこなしていく才覚を培うために努力してやまないもう一つの自分、つまり超自我のとりもち役が、自我なのですね。二つの心のせめぎあいで自我が培われるのです。自我の確立という戦後誰もが聞かされ慣れてきた言葉の意味が、そういうことなのです。
困ったことに、このイド·エゴイズム自我エゴがよく似た字なので、混同されがちで、しかも超自我という用語が、実は昔の修身のように大人から教えられないと身につかぬものを指すと思われがちなため、超自我という言葉がいっまでも耳慣れない。

子どもがトラブルをかかえたとき

えせフロイトの精神分析の原理が理解されないままの似非民主化社会だったというのが、私の戦後社会についての痛感です。正しく理解されない限り人の心も社会も育たないのです

わが子がいじめつ子と気がついて

·わが子に限ってと舞い上がらないでうちの陽太がいじめっ子だなんて、信じられないと母親は、心が動揺しています。
っもいじめられているという子の親から思いつめた調子の電話があったのです。

い私は、ひとからどんな事柄にせよ、非難されることが一番嫌いだし、またされるような覚えは何もないと、それこそ自信があったのに、それもよりによって自慢の息子陽太が、弱い者いじめの張本人だって。

体験をしつづけていくとそれがまさに関西弁でいう


勉強をはじめなくてはならないのです。子供を持つあの母親の電話での思いつめたヒステリックな嘆きと非難の訴え。
思い出すのさえ虫酸が走る。あの子に限って、そんなこと絶対あり得るはずがない!あんな男らしい、いい子が。ああ、この山下の家族が近所近隣の悪意によっておとしめられようとしているのだわ!
もし、お母さんがこんなふうな思いで、それこそ舞い上がってしまうようであれば、これはもう残念ながら、陽太のいじめぶりのひどさは、よほどのものだと、逆に私には見当がつくのです母親が、かくもひどくわが子を見損なっていなさる!

母の配慮がいつ

陽太君は、家で親に見せるさわやかではきはきしたよい子ぶりと、子ども集団で見せるもうすでに板についたものになっているに違いありませ番長ぶりとの二面の使い分けが、んそう考えたほうがいいようです.陽太君のお母さん。
·親の前でのよい子
って?
長い相談の中で、陽太君のような例を、それこそいくつも眺めてきました。
親がよい子であれとわが子に強制し、少しでもわが子のよくない面が見えるとひどく叱り、許しはせぬと息巻くのが常であるために、子はやがて、親の見えるところでは徹底したよい子ぶりを発揮するのが習慣になってしまったわけです。

子どもを見つめつつわが子がもっとも襟を正す


子どもはこのようなことができるだろうか。
そういうことってよくありますねつまり、子どもが超自我-スーパーエゴの化け物みたいなものに、事になり通して親の絶対的な評価をかち得ているのです。
親の前では見親は常々
ああこの子はいい子だと安心した時、成績にたとえれば、せっかく八0点取れるのなら頑張って九0点取りなさい。九0点取れるのなら九五点。九五点が取れるのに九八点取れないわけはない。九八点だって?どうしてそこまで取れて100点にはなれないの?そして、一度100点取れたものなら、いつも100点取れて当たり前でしよう、と、油断をすればつい完璧を望んでしまいかねない。そう願ってこそ親の愛情だなんて、危険な傾向に陥っても気がつかないものなのですね。

母さんが症状を説明している間

陽太は、
徹底して何にでもよく気のつく思いやりのある子だと、母親に信じられているので、母親の前ではそのイメージ通りに振舞わねばならないとつい思いこんでしまって、親の視線の届くところでは超自我の化け物になり切っているわけです。
ある女の子の場合もそうでしたね。その子の母親は学校でもPTA会長等の役職を歴任し、学校の教員たちとも意の通じる、その地域では一目おかれているような方であったし、少女自身も生徒会長として、親にも聞こえる高い評価を教員たちからも得ていました。ところが、表向きの評判とは裏腹に、陰では弱い子いじめの番長ぶりがすごかったのです。
この女の子の場合も問題の要点は全くここにあげる陽太の場合と同じでした。難しいのは親が凝り固まった思い込みから、いつどのように脱することができるかなのですね超自我
の化け物を前にこういう場合、例外のない落とし穴は、親が子どものよからぬ風評を耳にした時、興奮した硬直状態で、これはどうでも真相を明らかにしなければとはやまって、最も信じられるわが子に実にストレートに、こんなふうな対応をしてしまうことです


子供を持つ 教育で得た収穫である。 教育で得た収穫である。